末光喜代三先生を偲んで

                 佐藤昭美

 松山地区においては教室の唯一の先輩であり、師と仰ぎ兄と慕っていた末光先生が本年2月16日夕刻55才の働き盛りで他界された。
私は主として松山に帰られてからの先生について触れてみたい。
 先生がPAGET氏病ということで治療を開始されたのが確か43年秋であったが、たびたびの京大病院入院の期間を除いては最近迄開業医として働きながらの闘病生活であったため、この4年間のご苦労は計り知れないものがあったと思われる。
昨年5月であったか脊椎転移で京大から県病に転入院されたと聞き、お見舞いすると殊の外元気で「頚の具合が悪くて固定していないとめまいがする。頚性めまいという奴やなあ」と言っておられた。
夏には腰に痛みを感じ貧血も強くなってCo60照射も中止、何回も輸血を受け文字通り身動きもできない状態となり、下肢の激痛に対して硬膜外麻酔を受けられるに至ったのであるが、この痛みが余程身にこたえたのであろう。
「よくなったら耳鼻科はできないかもしれないがもう一度勉強しなおしてペインクリニックをやるつもりだ」と何返も聞かされた。
11月に廣戸先生や森・伊藤の両君が相次いで見舞いに見えた時には大変な喜びようだった。
ところが12月に入ってからは全くグラウザームな状態で面会に行ってもこちらがたまらない位で「間もなく春が来ますからね」と慰めにもならない言葉を見つけるのがやっとのことであった。
 ところが今年1月に入って俄に容態が持ち直り、正に奇跡がおこった。
「佐藤君、これ迄迷惑をかけてすまなかった。この頃はめしもうまいしおかげで元気になった。握手しよう」と満面笑いをたたえ、下半身のしびれた体をのり出して何返も握手される始末。
時には酒もたしなまれ寮歌も口吟まれる様子。
2月、森本教授還暦祝賀会式に出席しての帰り、餅類がお好きと聞いたので「なま八つ橋」をおみやげに買って帰ったところペーパーバッグまで所望されるほど京都をなつかしがっておられた。
一口頬張っていかにもおいしそうな口ぶりであったが、その数日後眠るが如く安らかに永眠された。
亡くなる前一ヶ月ほどは毎日が感謝に満ちた生活で何を見てもありがたいといわれ旅行のパンフレットなど見て楽しまれ殆ど悩みというものを感じられなかった様子で、今でもほのかななつかしい思い出だけが残っているのに救いを感じる。
 昭和36年、愛媛県立中央病院に赴任して来る際、四国には全く縁故のいない私は末光先生を頼って松山に来た。
先生は先々代の医長(先代は大西先生)で市内の日赤前で開業しておられ、着任早々毎晩のようにお邪魔して病院の内情やクランケのことなどお教え願い、当時未だクレブスについての経験が浅かった人間にとってそれこそ陰の大きな力になっていただいた。
 松山に帰られてからの先生は、地元耳鼻科会でもいつも指導的役割を果たしておられ38年冬、先生の発案で全国に先駆けて日耳鼻支部組織を作って佐藤理事長、名越社療委員長、それに廣戸教授を招待して発足会の運びとなった。
私も幹事をしていたのでお手伝いをしたが、その時はまだ支部組織は正式には認められていなかったので「県耳鼻科会」としてほしいと理事長から指示を受けて慌てて看板を書き換えたこともあった(その年の秋正式に全国組織が発足した)。
又先生は社保の審査委員としても活躍されたが、正に生一本の性格そのままに安易な妥協を許さないきびしさがあり、この点いろいろ批判の声が聞かれたこともあるが、それが又自信の現れでもあり、愛媛県において早くから中心的な存在であったことも確かである。
 先生は開業後も外来より手術にウエイトをおいて幅広く手術をされ、名声を聞いて松山以外の遠隔の地からも患者が集まって来たように聞いている。
 兎に角、凝り性のところがあって麻雀はもとより早くからゴルフに凝られ、PAGETで手術の後もCo60照射を受けられながらゴルフを続けるという猛烈ぶりであった。
その頑張り屋の性格が「後藤耳鼻咽喉科学」に見るあの膨大な「本邦耳鼻咽喉科文献の項目別分類」となって実を結んだのであろう。
 事情が許せばもう一度大病院で存分に腕をふるってみたいとよくいっておられたが、これも一介の開業医で終わりたくない気持ちがあったからであろう。
それだけに闘病半ばにして最近新築された立派な病院をたたまれて貸ビルの一室に診療所を開設し、外来のみを扱うようになった時の無念さを想えば心が痛むのである。
 先生一人を頼って松山に来たのに唯一の先輩を失い寂しい限りである。
亡くなられる直前に「佐藤君、松山の耳鼻科は頼んだぞ」と手をしっかりと握っていわれたが、先生のお言葉を無にしないよう頑張らなくてはと思っている。