夏の思い出                末光耳鼻咽喉科                末光清貞  今年も暑い夏がやってきました。(2007年8月9日記) 夏といえば夏休み、しかしそれは学生の特権で、卒業してからは夏休みではなくて単なる休日になってしまいます。 学生時代の夏休み、それも最後の夏休みを今も思い出します。  昭和51年、大学の6年生、最後の夏休みを友人3人と一緒にすごしました。 夏休みに入ってすぐ久留米を車で出発し、小倉から阪九フェリーに乗って神戸で下船、3人の中の一人の実家の武庫之荘に一泊しました。 その日は当然おとなしくしているわけではなく夜は三宮へ繰り出して、午前様の帰宅でした。 翌日二日酔い気味ながら、いざ出発です。  第1目標の長野県の白馬を目指しました。 数時間かかってたどり着いた白馬の民宿は山の中、周りはトウモロコシ畑だけでした。 そこで2週間、国家試験対策の合宿です。 午前中は独自で勉強、午後は昼寝をして、その後は周辺の散策、夜は4人でしゃべったりゲームをしたり、気が向けば勉強です。 確かによく勉強しました。 新臨床内科学を何度も読破して、どこに何が、あの右側にこのことは書いてあるくらいに暗記しました。 白馬はいいところで、観光名所もたくさんあり、午後は湖へ行ったり、ケーブルカーで山へ上がったり、のんびりできました。 夕方はトンボが飛ぶ中、当時流行っていたフリスビーに4人で興じました。 あっという間に2週間は過ぎていきました。 白馬最後の夜、4人で花火をしました。 打ち上げ花火をしながら、これが我々の青春の最後だろうね、なんてしゃべりながら。 実際それが我々の青春の最後でした。  翌日、一応解散で、1名は武庫之荘へ帰って行きました。 残りの3名は車で東京へ向かいました。 そこでまた1名は親戚の家へ向かい、残った私ともう1名も、その彼のお兄さんのところへ1泊しました。 東京で開業されているお宅で、一晩いっぱいお酒を飲ませていただきました。 そして翌日、我々2名は横須賀へ電車で向かいました。 横須賀の米海軍の病院で研修に参加するためです。 インターンではなく学生のためのエクスターンです。  米軍基地のゲートで書類を見せてパスをもらい、基地内に入るとそこはもう完全にアメリカでした。 車は右を走っています。 当然言葉はぜーんぶ英語。 お金もドルです。 木造の昔ながらの長屋が連なったような病院で宿舎へ案内されました。 狭い部屋でしたが、大きなコーヒーポットが置かれていていつでもコーヒーは飲めるようになっていました。 米軍のドクターは白衣を着ていません。 週の半分は白の軍服、半分はカーキ色の軍服に階級証が付いて、名札にDRと書いてあるか聴診器を持っているのでドクターとわかるくらいです。 白衣を着ているのは日本人のインターンで、日本の大学を卒業してすぐの人で、皆さんECFMGを目指してアメリカへ行こうとする先輩方でした。  最初に割り当てがあり私は外科への配属でした。 外科は朝6時から手術が始まります。 手術が終わってから朝食、それこそ朝飯前の一仕事です。 午前中も手術や外来があったりして、昼食が終わればほとんど仕事はなくなります。 午後3時過ぎにはもう病院は閑散としてドクターはいなくなり、働いているのは日本人のインターンと衛生兵。 ドクターは基地内の自宅へ帰ります。 我々も自由時間になります。 ドクターの自宅ではパーティーが再々あり、一度は招かれましたが腰が引けて行きませんでした。 米軍の基地中にはヨットハーバーがあり自家用のヨットやクルーザーが浮かべてあります。 高級士官であるドクター達が本国から持ってきているのだそうです。    食事はスタッフも患者さんも動ける人は食堂でバッフェ形式で食事をします。 食堂は2箇所あって、兵隊用と士官用。 どちらへ行ってもいいというので両方利用しましたが明らかに食事内容が違っていました。 ドクターたちは金髪のきれいなナースと一緒に食事をしています。 病院内にはナースは少なくてほとんどの仕事は衛生兵が行います。 ナースは皆さん士官で偉い人ばかりなのです。 患者さんも士官、その家族は個室ですが兵隊さんは大部屋です。 当時横須賀の米軍病院は東南アジアの中心病院で東南アジア全域から患者さんを集めていました。 既にベトナム戦争は終わっていましたがそれでもすごい重症の患者さんがヘリで運び込まれていました。 途中原子力空母ミニッツが寄港してきて、そばまで見に行きましたが、船というより鉄の巨大なビルディングでした。 3千人の乗組員がいっせいに横須賀の街に繰り出して大賑わいになります。  週末は病院内は誰もいなくなります。 友人と横浜へ行ったり横須賀の街を山口百恵ちゃんの横須賀ストーリーを聞きながら探索をしました。 あっという間の2週間が過ぎ、最後のミーティングで私は、この2週間は私はdeaf and dumbでした、と答えました。 ぜひ卒業後にはインターンとして帰ってきて、さらにECFMGを取ってアメリカへ行って欲しいといわれましたが、心の中では戦艦ミズーリ(後日、本物に乗りました)の無条件降伏状態でした。  こうして2週間の異次元、別世界での体験研修は終了しました。 松山へ帰ると突然松山赤十字病院におられた、現愛大耳鼻科教授の暁先生の訪問を受けました。 できたばかりの当時の愛大の耳鼻科教授の柳原先生と助教授の丘村先生が会いたいって、ということでした。 早速一席ご馳走になって、即入局を決めさせていただきました。  学生最後の、楽しい、そしていろいろなことのあった31年前の夏休み、でした。