三四郎会               末光 清貞  青年開業医会という名をつけたのは確か梶浦先生だったような気がする。どうしても 青年開業医会を作らねばならない、という意気込みが梶浦先生にはあった。私もその意 気込みに惹かれて発起委員になったが、私のもくろみはむしろ三四郎会だったような気 がする。  三四郎会とは、その昔、30台、40台の開業の先生方が作られていた会で、そのうわさ をよく耳にしていた。しかし、既にその活動は衰退して医師会の忘年会にその姿を変え ていた。三四郎会という名前ながら、医師会の忘年会兼用だったため、50歳を超えた方 々も出席して、挨拶は医師会長他ご歴々、どうしてこれが三四郎会なのか疑問に思って いたのである。  私の父も医師会員であったし、55歳で死んでいるので三四郎会のメンバーであったの かもしれない。しかし、うわさで聞いた三四郎会の武勇伝と父の姿は重ならない。父は 超まじめ人間であったので、逆に私は興味を惹かれていたような気がする。ばんから衣 装に身を包み、旧制高校校歌を歌いながら飲み歩いた、なんて事を聞いて、自分たちも やりたいなと少なからず思っていたのである。  青年開業医会の誕生は、医師会の東方土地購入、そしてそれに続く医師会病院施設建 設の構想に絡んでいたのは事実だが、むしろ私は同じ環境で、同じような仕事をするも の同志の交流の場を考えてた。  会を作るには結構大きな要因が必要となる。必要性や動機、優れた指導者やそれにそ のスタッフ。ちょうどその時期であったと考える。構想がまとまって、当時の医師会の 庶務主任理事の鉾石先生に話しに行った時、50歳以上の会員も認めろ、B会員の入会も 認めろ、と言われた。しかしそれでは骨抜きになってしまう、と言って我々の意見を通 したのを覚えている。  今、まさに青年開業医会卒業を前に、作ってよかったとつくづく思っているこのごろ である。 2000.9.18