出会い
四季録


 五〇年代は日本のジャズの黄金時代だった。六〇年代、アメリカはモード手法を用いた新主流への変革期で、ジャズメンが日本に新しい仕事場を求めて続々と来日した。七〇年にマイルス・デイビスが出した「ビッチェス・ブリュー」はジャズ界で賛否両論を巻き起した。この頃から「ジャズは難しい」と言われ始め、ジャズはマイナーな世界へと突き進んでいった。七〇年代の日本は好景気で、ショーを楽しむキャバレーやダンスホール、クラブなど、演奏の仕事場は多かったが、ジャズメンはショーの合間やBGMとして遠慮がちにジャズを演っていた。 
 私がジャズを始めたのはそんな七〇年代の終わり頃。仕事量からすると少し遅れて生まれたらしい。当時バーが流行の兆しで、そのはしりが、私のジャズピアニストとしての最初の箱「ロフトクラブ」だ。八一年のオープンから日曜以外毎日、ベースと二人でジャズを演った。
 いくら好きでも毎日になると、自分の演奏に嫌気がさしたり、演奏に対して反応がないことにやる気が失せたりもしたが、毎日ジャズができる場を得られたのは好運だった。来松したビッグミュージシャンとセッションができたり、日本のコルトレーンこと西村昭夫(TS)がレギュラーで入ってくれたり、店に訪れるたくさんの人と知り合えた。
 ジャズを演っていたからこんなにたくさんの出会いに巡り会えた。ジャズを始めたのは偶然の選択だったが、出会いを得るのには都合のよいジャンルだったかもしれない。「ジャズを演っててよかったなぁ」と、つくづく思うことのひとつだ。ロフトクラブ時代の経験や出会いは私の財産となり、私を支えてくれている。
 アフター・アワーズもしっかり楽しんでいた。行きつけの焼鳥屋で、焼酎を飲みながらアドリブについて教えてくださった西村さん。マスターの於菟さんのかっこよさに魅せられて毎晩いい男いい女が集まっていた「六本木」。「くるきち」では文化人達が熱く語り合っていた。今は西村さんも於菟さんもくるきちのお母さんもいない。ロフトクラブもなくなった。
 時々あの頃を懐かしく思い出しながら、私は松山でジャズを演っている。私のジャズは松山で育ち、これからも大好きな松山でジャズを演っていくだろう。私を育んでくれた「ロフトクラブ」に感謝。未知の世界での音楽活動に戸惑いながらも良き協力者である父母に感謝。いつも見守って下さっている皆様に感謝。半年間お付き合いいただきありがとうございました。

栗田敬子  ジャズピアニスト