蒲谷敏彦のKOREA REPORT 5月号
KOREA REPORT (5月号)
−−光州事件と社内旅行−−
アパートの生垣のバラが真っ赤に咲き誇っています。寒い冬を越えて、我世の初夏を謳歌しているようです。
5月になってソウルも随分暑く!なってきました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
安眠島のフラワー・フェスティバル
さて、日本でも5.15とか2.26事件など日付の数字で表される事件がいくつかありますが、韓国ではこんな記念日が沢山あります。以前紹介しました3.1(サミル;1919年日本の朝鮮支配に抵抗した独立運動発生日 KOREA REPORT 02年2月号参照)や、6.25(ユギオー;1950年朝鮮戦争勃発日)が有名です。
『えー!どうしてもう、始まっているの?』
日曜日の午前11時から始まるサプライズというクイズ番組が11時前には終わりそうになっているのを見て、家内が不服を言っています。変わりに11時から始まったのは、光州事件慰霊祭の生中継でした。
1979年軍事独裁政権をしいていた朴大統領が部下に暗殺されます。そして韓国につかの間の『民主化の春』が訪れますが、全斗煥がクーデターでまたまた軍事政権を築きました。1980年5月18日戒厳令の全国拡大に抗議して、全羅南道光州市では民衆が立ち上ります。戒厳軍と市民軍で内乱状態になり、一時市庁舎などを市民が占拠し自治が始まるなど、光州市は解放区の態を呈します。
あせった全斗煥は3000人の空挺部隊を投入し鎮圧します。現在は民主化を要求する市民を虐殺したということになっています。
2000年イ・チャンド監督の韓国映画『ペパーミント・キャンデー』には、光州事件制圧に動員された若い兵士が夜の停車場で少女を射殺し、軍靴に溜まった自分の血に恐れ戦き、その時から人生を転げ落ちて行く姿がオムニバス風に描かれています。日本でもビデオ発売されているようですから、ご興味があれば是非どうぞ。お薦めです。
全斗煥はその後大統領になり、部下であった盧泰愚が次の大統領になり、金泳三大統領の時代に二人はこの事件の関係で逮捕され死刑判決を受けました。そして5月18日はオーイルパル(5.18)と呼ばれる光州事件(民主化)の記念日になりました。
その光州事件の犠牲者慰霊祭が光州市の墓地で行われ、盧新大統領が出席する予定になっていました。11時の記念式開始時刻になってもなかなか始まりません。大統領の到着が遅れているようです。夏のような日差しを受け、犠牲者の遺族が扇子を扇いでいます。広島の原爆慰霊日を連想させます。
18分遅れで大統領夫妻がボディーガードに守られながら歩いて来られました。韓国大学総学生会連合(韓総連)のデモ隊が墓地正門を占拠しており、大統領は後門から6Kmほど歩いて来たといいます。韓総連は先日の米国訪問の際の弱腰外交に対する抗議だそうです。
後日談では盧大統領がNYから釜山港の港湾労働者のストライキの様子が心配でソウルに電話したが、時差(米国が昼で韓国が夜)の関係で、電話に誰も出なかったと新聞に面白おかしく書いてありました。韓国のリスク管理もどこかの国と同じで随分寂しい?
光州事件は全斗煥の軍事クーデターに対して、民主化を求めた全南大学デモ隊の投石から始まったそうですが、今回の新大統領の記念式参席妨害には軍隊での応戦はありませんが、司法的厳罰に処す方針だということです。いつの時代になっても民主化は難しいようです。
日本の話題は謎の白装束騒動もありましたが、今はやはり新型肺炎SARSでしょうか。
SARS感染の台湾人医師が関西を旅行して大騒動になっています。観光地やホテルやJR,地下鉄などの消毒や関係者の体調調査など大迷惑になりました。でも、外国人の日本旅行はやはり日本人の国内旅行とは随分違うことを再認識させられましたね。
普通、大阪〜京都〜天の橋立まではいいけど、小豆島や淡路島まで一緒に廻らないだろう、と思ってしまいました。昨年当社技術部の姜部長が下関〜福岡〜大阪〜京都〜熱海〜日光〜東京7泊8日のパック旅行(パックはパックでもバックパック旅行)をしたのを思い出しました。
今回の人騒がせな無神経な台湾人の日本旅行には非難轟々のようですが、現地の状況はどうなんでしょう? 台南市に駐在の同僚に聞いてみましょう。
『 今のところ台北地区が殆どで、南部地区は発症例は少ないというのが現状です。台湾政府として色々と手を打ってはいますが、5月一杯は危険、6月になってやっと減少するのではとの見方が一般的です。ニュース、新聞は毎日SARSばかりで見たくもありません。もううんざりです。外出時、出退社時のマスクの携帯、出社、帰社時の手洗い、うがいの励行、また病院、デパートなど人ごみを避けるなどの対策は打っています。じっと治まるのを待つしかありません。神さんにでもお願いしましょう。うかつに風邪も引けません。
では再見。
台湾より E氏 』
そういえば、先月号のマレーシア駐在のD氏は日本に避難していますし、北京のB氏は上海に避難してカラオケは自粛状態だそうです。SARS禍はなかなか治まりそうにありませんね。
そんな中、SARSにも負けず、北朝鮮の核開発にも負けず、初夏の日差しにも負けず、当社天安工場の社内旅行が決行されました。貸切りバス1台に40余人が乗り込んで8時30分に工場を出発しました。行く先は安眠島(アミョンド)のフラワー・フェスティバルです。
安眠島は天安市から西へ車で2時間程走った西海(黄海)沿岸にあり、1638年までは陸続きの半島だったところで、広島の音戸の瀬戸のように運河を開拓したので島になったそうです。1970年に安眠大橋が架けられ、また陸続きになりました。周辺は泰安海岸国立公園で森林浴ができる朝鮮時代からの赤松の群生と白い砂浜が有名です。
車内で旅行の日程説明と私のつたない挨拶と羅生産部長の挨拶が終わると、缶ビールとソジュ(焼酎)を開けて、走るカラオケ大会になりました。工場の歌姫、いつもは軟水器を組み立てている金おばさんが口火を切って、歌は大音響で続きます。もちろん私にも何か歌えとマイクが廻ってきました。
数少ないレパートリーの中から韓国の歌(マンナム;出会い)を歌うと皆案外シラーっとしています。昔はハングルでつたない挨拶をしたり、ハングルでつっかえつっかえ歌を歌うと大喝采だったのですが、韓国駐在3年目に入った今では、見飽きた上野動物園のパンダ、面白くないスピーチをする上司、下手な歌を唄う韓国人になったみたいで、全く受けなくなったようです。
ソジュのビンを持った散髪しだちの男子社員が通路を行き来し、制御盤を組んでいるアジュマ(おばさん)社員が歌に合わせて踊りだしました。いつもは工場のヘルメットの下に隠している、茶髪頭を振って若者も絶叫調で歌ってます。
安眠島のフラワー・フェスティバルは、大阪花博の1万分の1?の規模ですが、バラや菜の花畑、つつじが綺麗でした。韓国でも盆栽は随分人気があるようです。散策が終わるとバスで浜辺の松林に移動して皆でお弁当(ご想像どおり白いご飯におかずは真っ赤な各種キムチなど)を食べました。
砂浜での無制限サッカー
お腹がくちるとお決まりの砂浜で、足球(チュックゥ)の開始です。これはネットを挟んでバレーボールを足でするようなものですが、ワンバウンドまではOKです。ネットも手製のネット・ポストも用意していて本格的です。私も無理やり参加させられていい恥をかいた上に、賞金の10万Wを供出させられました。(足の筋も痛くなった)
真昼の晴れ上がった海岸の日差しを浴びて、みるみる皆の顔がお酒だけでなく赤く染まってゆきます。足球を5セットも6セットもやったのでもう終わりかと思ったら、最終決戦をするといって、無制限サッカーを始めました。
何が無制限かというと、通常のサッカーのコートのようにエンドラインやサイドラインがありません。広い砂浜に鉄のパイプを離れて2本立て、その周りに丸くペナルティラインを書きます。手を使ってよいキーパーは2人のおばさんがしています。中のパイプにボールを当てればゴールです。
20余人づつに分かれてユニフォームも着ていないので、私にはどちらがどちらか判らない社員達が、全員一斉にボールを追って白い砂浜を必死で走ります。コート外はありませんから、どこまでも走って行き、そしてゴールポスト(パイプ)目指して必死で帰ってきます。サッカーの原点を見るような光景です。いつしか日は傾き、砂浜には潮が寄せては返し...
歓声が上がり、工場では鉄板の溶接をしている朴君がヘッドでゴールしたようです。左手の拳にキスをしながら走っています。韓国代表のアン・ジョンファンの真似をしているようです。私の賞金10万WはMVP賞で彼のものになりました。
皆ヘトヘトに疲れているはずなのに帰りの車内では、またまた飲めや唄えの大カラオケ大会で、ますますヒートアップです。眠たいのに大音響、大絶叫で起こされながら、何かほんわかとしたものが、胸の中に湧き上がります。仕事の為にここに居るのか? ここに居るために仕事をしているのか? 韓国の人々と今ここに居る意味を、今度はもっと受けるハングル・スピーチと唄って踊れる韓国駐在員になるぞ、と誓いながら考えるのでした。
日も落ちてきました。
今月はここまで、また来月お話しましょう。
ソウルより 蒲谷敏彦
[ Top] [ レポート一覧 ]