2004 蒲谷敏彦のKOREA REPORT 師走号
KOREA REPORT (師走号)
―― 沙也可になれなかった私 ――
冬ソナのペ・ヨンジュさんが来日されおば様方が怪我をされたり嬉し泣きをされたりして、曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんは米軍キャンプの刑務所から出所され佐渡島に一家全員で帰郷されたとか。まあ、親殺しや少女誘拐や放火など嫌なニュースの中で目出度し目出度しの話題ではあります。 かれこれのご無沙汰でした。私KOREA REPORT史上何度目かのスランプに落ち込んで書きあぐねておりました。枕が替わると眠れないと言われる御仁がいらっしゃる如く、環境(それも住む国)が変わると創作意欲が阻害されるものか? 単に夏休みの宿題を一日伸ばしにして、今からやろうとしてるのに・・・ と言い訳ばかりしている間に12月も下旬になってしまいました。慌ただしい師走皆様いかがお過ごしでしょうか?
慌ただしいといえば、韓国からの永久帰国で日本の松山に帰って来た先月はいろいろなことがあって、いろんなことをさせられた怒涛のような日々でした。海外駐在員はもちろん海外に赴任する時も大変ですが、帰国する時もなかなか大変なものです。ご参考に(参考にならないかも)KOREA REPORTを書く暇もなかった(書く気にもなれなかった)このひと月の出来事をお話しましょう。
山里の鹿洞書院
昨年11月22日に永眠された韓国の和歌詩人孫戸妍(ソン・ホヨン)女史(KOREA REPORT 03年12月号参照)の一周忌を前にお墓参りに行きました。地下鉄明洞駅から程近い極東ビルで女史の伝記を出版された北出ご夫妻と待ち会わせて、女史の息子さんがオーナーの会社で働いていたという金さんと安さんに案内されました。それから龍仁市山奥の土饅頭のような朝鮮式墳墓に到着するまで、定年退職されてもう10年にならんとする韓国人お二人のお話を車の中で2時間ほど聞かされたのでした。
首都移転に失敗(前は漢江、後は北漢山という風水上最高の場所にあるソウルの都を移すことは、韓国にとって良いことでないというのが安さんのご意見で)した盧武鉉大統領の巷の不評やら、満州で日本人の生徒に混じってただ一人の半島(朝鮮)人で陸軍士官学校に通っていた頃の話(中国語は現地の中国人に教わったので本物だと流暢な日本語で自慢されて)や、今でも日本で開かれるその同窓会には何回に一度は出席していて、だんだん同窓生が亡くなって少なくなって寂しいのでそのご夫人やご子息が代わりに出席されるという妙な会則や、人生大切なことは健康と敵を作らないことだという、永年職業軍人を勤められた人(朝の便通は今でもいい)らしいありがたいお説教をされたりして、秋とは思えない小春日和の田舎道をRV車で行けるところまで行くと、ここからは歩きですと、花輪やお供え物やゴザを手分けして急な山道を中年や熟年や老年の男女がヒイヒイ汗をかきながら登ってゆきました。
りっぱな土饅頭と慰霊碑の前にゴザを敷いて、お墓は南向きなので赤いお供えものが右(東)、白いものは左(西)と教えられながらリンゴや梨や魚の干物やお餅を並べます。一人一人お墓に向かって三礼(土下座)して紙コップに注がれたお酒をお墓に撒きます。その後、一人一人お墓の中の女史に向かってそれぞれの近況と心境を語ります。日本では心の中で唱えるところでしょうが、口に出して皆に聞いてもらうというのもなかなか良いものです。一種の癒しになるかも知れません。
『4年足らずの韓国生活も今月で終わります。少しの間日本に帰国した後中国の蘇州に赴任します。ソン・ホヨンさんのご縁で今日こうしてまたご親切な韓国の人にお会いできたことをありがたく思います。そして、天国からご主人とご一緒にお見送り頂いたらと思います。ありがとうございました。』
そして、山間の切り開かれた暖かい陽光が降り注ぐお墓の前でお供え物をあてに日韓の酒盛りが始まるのでした。
『最後にどちらに行きたいですか?』
『う〜んと、木浦、麗水、南海は行ってないなあ。でも、一番行きたいのはやっぱり沙也可の里だなあ』
『サヤカって何ですか?』
メンテナンス部門の幹部が集まって私の送別会をするという。最後の我がままを言って、大邱近郊の日本人ゆかりの村に行くことにしました。
冬ソナじゃないけど綺麗な並木道
大邱での会食は、釜山や大田、ソウルから集まった幹部社員が随分気を使ったのか日式の刺身料理になりました。海老が美味しいでしょう。アワビもいいですよね。韓国でも食品流通がよくなったものです。半島のヘソのような盆地なのに海産物が新鮮です。ここの海鮮鍋(ヘムルタン)が好きでした。私の拙い韓国語の帰任挨拶に応えて、保守管理部代表から感謝牌を贈ります、と本社会議室にスーツ姿で畏まっている幹部一同の写真(いつの間に撮ったんだろう)と次のような感謝の言葉がステンレス板に刷り込まれていました。
『貴下におかれては平素韓国ミウラ工業株式会社保守管理部に並々ならぬ関心と理解を持ち献身的な努力と声援を惜しまないばかりでなく、韓国ミウラ工業株式会社に赴任した時から保守管理部の発展に寄与した功は大であり、その功労に対し感謝し貴下の名においてこの牌を献上致します』
うまい! 何に貢献してどう成果を上げたのか?よく分からないけどうまく褒めてある。だから韓国勤務は一度やると止められない。小学校の頃からこのような賞状は貰ったことが無い。韓国に来てやっと誉められるとは。日本を代表して行けと言っていた故郷の父母も大層喜ぶことだろう。ソジュ(韓国焼酎)の注ぎ合いと握手責めや皆での記念撮影で一次会は終わり、大邱タワーが建つパルゴン山に若手社員の李君運転の車で出かけて、タワー上の回るレストランでカクテルを飲みながら、もうすぐ結婚する李君は牛泥棒です、仕事の合間にそんなことしてるの? 韓国では5歳以上年下のお嫁さんを貰うと牛泥棒というんです。牛が大変貴重な存在だった、それも各家に存在していた頃のそんな話をしながら夜は更けてゆきました。
『蒲谷さんと一緒に来たかったのでずっと行かずに待っていました』
と言う、大邱の金課長が運転する車で本当に待ってくれていたようなみごとな紅葉の街路樹をくぐって、大邱の南東沙也可の里と言われる友鹿洞(ウロクドン)にほどなく着きました。日本の山里にもありそうなひっそりと静かな里に、沙也可が祭られている鹿洞書院があります。この書院を中心に沙也可記念碑や歴史資料館が建造され現在は韓日友好の広場になっています。
私が沙也可の話を初めて知ったのは、司馬遼太郎氏の『街道をゆく ― 韓の国紀行』でしたが、韓国の道徳の教科書には次のような沙也可の話が掲載されていました。(日本でも近頃の高校歴史教科書に『朝鮮側に投降した日本武将』として掲載したそうですが、ご存知でしたか)
『壬辰倭乱の際、“沙也可”という武士がいた。彼は幼い頃から武士修行の傍ら、文の読み書きにも励み文武両道を兼ね備えた武士であった。
壬辰倭乱(文禄の役)が起きると、沙也可は加藤清正の先鋒将として朝鮮に上陸した。ところが進撃する途中不思議なことを目撃した。それはある農夫の家族が難を逃れる光景であった。
数千人の日本軍が鳥銃を発砲しかけて来るのに、農夫は老いた母親を背負い、農夫の女房はふろしき包みを頭に載せ、幼子の手を引きながらも姿勢は少しも崩さず山路を登っていった。
その光景に沙也可は深い感銘をうけた。
あのように善良でおとなしい百姓を害するのは先賢の教えに背くと気づいた。幾日かの思い煩いのあげく、沙也可は自分に従う500余名を率いて我が国(朝鮮)に帰順した。 (抜粋)』
沙也可はその頃朝鮮軍が手を焼いていた豊臣軍の火縄銃(鳥銃)の技術を伝授し、朝鮮軍として戦果を挙げたそうです。その後部下とともに帰化した朝鮮では、朝鮮の内乱にも参戦し功績を挙げたとして、(金海の)金という苗字を王から与えられ友鹿という里に安住したということです。
何想う初代(祠奥)と13代目沙也可
数えて沙也可から金海金氏13代目だという、80歳になられる歴史資料館顧問の金泰烈氏からいろいろ説明していただきました。この友鹿洞の里には沙也可の子孫が250世帯住んでいて、韓国全土では7000人になり、今でも旧暦の10月第1日曜日には全国各地から子孫が集まって沙也可を偲んで祭祀が執り行われるとのことです。
今でこそ、日本から政治家や修学旅行生が来館し年間4000人を超える数になっているとの事ですが、日本から見れば敵方に寝返った裏切り者、朝鮮から見ればもともと憎き日本の大将、戦前の日帝時代にはさぞかし肩身の狭い思いをされてきたのでしょう? と何とはなしにお聞きすると、
『あれから400余年が過ぎ去って、私の体の中に流れている日本人の血も1000分の1くらいになっているでしょう。ご先祖さまには申し訳ないが、日本人も朝鮮人も関係ないのではないでしょうか?』
と、ご先祖さまが作ったという鳥銃を自慢されていた13代目は、赤く燃え上がる書院前の木を見上げるのでした。
沙也可という奇妙な謎を呼ぶ名前から、彼はどこの誰であったのか? 当時鉄砲技術集団として名高い雑賀衆説や小西行長の鉄砲隊説などがあるそうです。どちらにしても、どうして朝鮮に残ることにしたのか? 彼の心情はいかばかりであったのか?
『敵に寝返るなどとんでもない奴だ』 と最初は誰でも思うに違いない。国という21世紀に入っても世界が抱えているどうしようもない構造的問題に縛られずに広い視野で見てみると、違った沙也可像が現れてくるように思えます。
そして、友鹿洞近くで二人の金さん(大邱の金課長とソウルの金課長)と一緒にどんぐりが原料だという、よく切れるこんにゃく、茶色の無味なところてんのようなムクチュうどんを食べながら、はるか400年前に韓国出向から帰化して帰ってくることのなかった大先輩を偲ぶのでした。
それから、天安工場での大送別会(よく酔いつぶれなかったと自分を褒めてあげたい)があって2次会のカラオケ屋ではカムサハムニダ(ありがとう)しかしゃべらない中村さんを知っているという韓国アガシ(お嬢さん)に韓国語がうまいと褒められて、韓国通信(韓国のNTT)からは国際電話を沢山使って頂いたので景品でDVD機器を贈呈しますと言われて、ソウルのアパートからの引越し荷物出しには改めて韓国人の並外れたスピードとパワー(気がついたら部屋の中が空っぽだったというくらい)に驚愕し、
その夜のカルビ屋であったソウルの送別会で紙に書いたハングルのお別れの挨拶を読んだら全然発音がダメだとけなされて(読んだりせずにいつものように話したほうがいいのにと変に慰められて)、翌朝帰国の飛行機に乗る前に時間があったのでかねてから行きたかった西大門の刑務所(日帝時代に反日分子を捕らえるために造ったもので、韓国のジャンヌダルクと呼ばれている柳寛順もここで獄死した)跡を見学して案の定またまた暗い気分になって、松山の空港に着くとそこは安穏とした別世界があるのでした。
どんぐりが原料とは思えないムクチュうどん(黒と白のバージョンがある)
それで、日本では引越し荷物が到着するまでの1週間は貸布団を借りて寝て、電話、携帯電話、インターネット接続、新聞などの新規手配、住民票転入届、銀行などの各種住所変更をして、それぞれソウルだと直ぐできるのにどうして日本ではこんなに時間がかかるのかと一人で頭にきて、あちらでは電圧が220Vだったので家電はほとんど買い直す(もうすぐまた中国勤務になるので)のにレンタルより中古屋(近頃はリサイクルショップというらしい)より安売り家電屋の方がずっと安いと分かって(アイロンはレンタルで3000円、中古で930円、安売り特価は870円(ベトナム製)だった)、短期間の日本駐在中に帰国のご挨拶と出国のご挨拶を済ますべく毎週末には知人に会って、その上今度いつ日本字幕の映画が観られるか分からないから週末の夜は映画を観に行って(『ディープブルー』と『血と骨』と『ハウルの動く城』と『Mr.インクレディブル』と『ターミナル』を見たけど3勝2敗みたい)、おまけに金曜日は中国駐在の為の予防接種(日本脳炎と破傷風とA型肝炎とB型肝炎)を受けに毎週(それぞれ別々一週間ごとに2回で8週間)通って、北条市が松山市と来年1月1日から合併するので私の小さなヨットの係留契約はこれまでの漁協ではなく北条市?と行なうことになってその手続きで右往左往(お上のご意向で庶民はいつも大騒ぎみたいな)して、今年の台風でそのヨットの定置アンカーが効かなくなったのでアンカーを打ち増しして、ついでに中国語の個人レッスンを週2回自宅でしています。これが私の韓国から帰って一ヶ月の生活です。
歳も押し迫ってきました。この冬一番の寒さにもなりました。世界的に忘年会の季節、皆様お体に気をつけて良いお年をお迎えください。我が家では韓国のオンドルを懐かしがりながらコタツにみかんの年末を楽しんでいます。それではまた。
ソウルから帰ってきた 蒲谷敏彦
おまけ:『ソウルな女性達第6話』のへース(家内が日本語を教えていた女子中学生)から日本に届いた(日本語で書いてあった)ハガキ
『せんせい おふさしぶりです。おげんきですか。そこにてんきはいいですか。今ソウルはとても寒いです。そして、風邪を引きました。せんせいもおじさんも風邪に住意しなさい! さようなら! 王恵秀』
そして、ヘースが日本の我が家にやって来る。冬休みの間、松山の我が家にホームステイすることになったのでした。だから、KOREA REPORTはまだまだ続きます。KOREA REPORTは永遠に不滅です、ってか。その話はまた来月(来年)の心だあ〜
ソウルより 蒲谷敏彦
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