Smiley Tama の独白的 PROFILE
私の現況 2003年7月15日記
2005年9月20日一部改訂
注:現在私は70歳ですが52歳時のプロフィールを継続掲載しています)

私は52歳の自営業で生活するおじさんです。37歳からジャズ・ピアノの練習を始めました。詳しくは「写真で見る音楽履歴」をご覧下さい。下手ですが、15年間随分と苦労しました。自分では「それなりに演奏は出来きるようになった」と喜んでいます。
さて、15年間で出来るようになったことを列挙します。アドリブはUXを原則に構成された曲なら出来ます。ジャズで汎用する7つのキーならば、歌伴やバッキングが出来ます。テーマやイントロは初見では弾けませんが、1ヶ月練習期間があればマスター出来ます。フュージョンや五拍子は出来ませんが、4ビート、ボサノバ、サンバ、ジャズロック、バラッドなどをやっています。テンポは4分音譜200以上は出来ません。左手のアルベジオが出来ませんが、汎用されるコードはそれぞれ3つ以上のパターンで覚えています。「いまどこ」には陥りますが、たいていの場合はどうにか復帰することが出来ます。音色は汚いですが、バンドでやる場合に必要な最低限の音量とキレで弾くことは出来ます。アドリブの右手はほとんど単音です。連続の16分音譜はテンポ140が限界で180を超えると16分音譜はまったく弾けません。左手のバッキングがスムースに入らないのがずっとの悩みで、特に16分音譜フレーズでは左手はお休みです。暗譜は50曲程度で140曲程度を演ったことがあります。モードはできません。スケールは汎用されるコードでなら、リディアンス7、オルタード、ハーモニックマイナーパーフェクト5thビロー、コビネイテッド・ディミニッシュ、ホールトーン、ブルーノートを覚えています。

Smiley(^-^)Tama

練習 2000年1月15日記
2005年9月15日一部改訂
バンドの練習は毎週木曜日にプロの人達の練習に混じって、ピアノトリオ1曲、カルテット2曲、歌伴2曲の5曲程度をやらせてもらっています。7年間続けています。上達は遅いですが、参加当初の録音と聴き比べれば格段に上達しています。ジャズストリートに3年前からこのバンドの一員として参加しました。最近1年間は定例の練習以外に、別のメンバーとトリオを編成したり、ジャムセッションに参加したりしています。
13年前に始めたころは1日30分程度の練習でした。コードとメロディーを覚えるのが主でした。
1年たって教師を替えて1時間程度に増えました。コピー譜のマスターでした。
3年を越してコピー譜のマスターに疑問と苦痛を覚えて、スケール練習に励みました。練習時間は1時間程度だったと思います。自分の音痴を自覚していなかったので、スケール音と調性感の狭間で絶望的な作業をしていました。
5年目に音痴なのを自認しました。また、バンドに加入できる見込みがたたなかったこともあって、ヤマハの独り弾きの教則本を始めました。練習時間は毎日2時間、日曜日は8時間なんてときもありました。加えてフレーズ集を練習しましたが、これが実践で役立たないイラダチは精神的にダメージでした。肉体的にもこの頃が一番辛くて、6年目の終わりに頚椎障害で手のシビレが起きました。病気を機会にその後半年間は週2時間程度に減らしました。やめる気はなかったですが、展望を開くキッカケを掴めず、暗闇をさまよっている気分でした。独り弾きは結局モノになりませんでした。
6年目に幸いにも現在も続いているバンド練習に誘ってもらって活き返りました。当初はただ演ることが精一杯で系統立った練習法は見出せませんでした。独り弾きの練習で覚えた楽譜の右手のフレーズを流用していました。
1年たってアンサンブルに特有の必要な練習があることに気付きました。「バッキングの理論と実際の弾き方」「メトロノームを2拍4拍に合わせて弾く」「自分で書きアドリブを創って覚える」など、半年毎にテーマを決めて取り掛かりました。この方法は今も続けていて、今年の正月からは「テンポ220のバップまたはハードバップ曲」に挑戦しています。この方法の利点は練習が「実利に直結する」ところですが、欠点は成果の評価が困難なので途中でいい加減ニナッテ「サボリに陥りやすい」ことです。
「50歳になったら新しい練習はやめる」と決めていました。「今まで身につけたことをより音楽的にすること」を目的にしようと思っていました。が、幸いにもまだ元気です。もう少し「新しいこと」にも挑戦したい気力が旺盛です。50歳以降の練習法を考えています。

以上は2002年の文章です。いまは54歳、バンド活動は熱心に続けていますが、個人のピアノ練習はあまり熱心にはしていません。ダイエットやジムに多くの時間を費やしています。ピアノそのものは現状の技術で楽しみながら、おじさんが役立つ分野で人生を楽しむ方法を模索している感じです。「軽やかなおじいさんになりたい」が今の私の目標です。
Smiley(^-^)Tama

好運! バンドになぜ入れたか? 2000年1月15日記
バンドにピアノは2人は要らない。一定以上のレベルに達しなければバンドからのお声はかからない。幼少からのピアノ訓練を受けていなければ、バンドに入る前に基礎的能力を習得することはなかなか困難だ。音楽教育を受けた若い人達が次々と出てくる。私がバンドで練習する将来はあるのだろうか?。待つことしかないのだろうか?。練習をはじめて6年目に入り、毎日の独りピアノの練習で肉体的にも精神的にも重い疲労を感じていました。見通しのない現状に暗澹たる気分でした。
それまでに10曲ほど弾ける曲が出来ていました。「これを録音して残そう」そして「区切りをつけよう」と思い立ちました。といって、バンドに入れるはずもなかったので、ギャラを払ってプロのベースとドラムに頼みました。場所はジャズライブハウスの昼間。ジャズライブハウスのマスターとは特に親しいわけではなかったのですが、ほかにアコースチックピアノを置いているスタジオを思いつきませんでした。録音はいまも残っていて時々聴いています。本格的なバンド演奏は初めてだったわりにはそれなりに弾けています。当時の懸命さを甘酸っぱく思い出します。
この思い付きが思いがけない展開になりました。その頃偶然ドラムスの人がバンド編成を試みていました。スタジオ替わりにお借りしたライブハウスのマスターが僕のことを話してくれました。そのドラムスの人を私は知ってはいましたが、親しく話したことはなかったのです。突然「バンド練習に来ませんか?」と声をかけられました。そのとき、どう返事したかは覚えていません。編成はトリオ+ギター。若い女性ピアニストが2名いました。僕がどんな演奏したかは定かではありません。ともかくもバンドに入れました。暗澹は消え活きかえりました。信じられない好運でした。
その後1年間は慌しくメンバーが替わりましたが、プロのジャズピアニスト、プロのベース、プロのギターが入っていまも続いています。プロアマ混成のバンドで懐の深さが身上です。トランペットを抱えて仲間入りを求めてきた若者もいれば、エレキベースをもってくるミュージシャン志望の未成年者もいます。プロの男性ボーカリストも入りました。もうすぐまる7年が終わります。僕はといえば無欠席(昨年1回だけ休んだ)で通い続けています。このバンドに入っていなかったら僕はまったく違った音楽人生を歩むことになったでしょう。仲間ミュージシャンの優しさと自身の好運に深く深く感謝しています。

Smiley(^-^)Tama

現在の活動と希望2003年 2003年7月17日記
50才になった頃(13年目)から対外活動が増えました。自前のバンドを編成して”ジャズストリート”や”自主ライブ”や”店の営業演奏の代役”などでの演奏機会が年10回を越えるようになりました。”個人技の上達に対する灼けるような気持ち”は薄くなり、バンドの維持やステージ創りに関心の重点が移ったように思います。また、この3年間は「えひめジャズネットワーク」や「かちまちジャズ倶楽部」などのジャズ団体設立と維持や地域間の連携、「おいでや!JAZZ STREET2003」の実行委員長を務めるなど、おじさんアマチュアらしい作業に関わることが多くなりました。反面、個人練習の時間が減り、「以前にも増して下手になってきたな」と反省しています。それで、ときおり個人練習に取りかかりますが根気が続きません。練習に熱中すると、翌日が”しんどい”のが悩みです。”1日したら、翌日は休み”という具合です。50才の体力・気力と相談しながら”無理なく音楽人生を楽しみたい”と思っています。10年後、”おじさん”から”おじ〜さん”に昇格したとき、若い人達から「スマイリーさん、一曲演りますか。」と誘って貰えるような人生を耕したいと願っています。
Smiley(^-^)Tama

現在の活動と希望2013年 2013年10月30日記
60歳手前(24年目)頃から音楽の嗜好が変わってきました。クラシックが好きになってコンサートに足を運ぶようになりました。ロック系の大音響と主張に全く共感がなく、ジャズでも、新奇性や即興性や超技巧に関心を失いました。音楽に限らず、絵画でも抽象やデザインに興味がなく、ロマン派の光の表現に強い歓びを感じます。歳をとったのだと思います。「自分が弾く汚いピアノの音を嫌悪する」と言い訳して練習をサボっているので技術は一層に衰えています。それでも「ジャズ・ピアノは私の残りの人生を彩ってくれるハズの数少ない私の宝物なので、大切に続けていこうと決心しています。ジャズ・ストリートの世話役を12年間続けています。若いひとたちとの接点をもつことが難しくなってきているのが悩みです。
Smiley(^-^)Tama


別抄
私の趣味「ジャズ・ピアノを弾くこと」
2014年5月20日記
1951年生まれ、63歳です。ジャズ・ピアノを弾くことを趣味にしています。
小学4年生(1960年)4月から15ヶ月間、ピアノを習い、「エリーゼのために」を発表会で演奏しました(写真 小学生)。
中学2年生(1964年)のとき、ビートルズのShe loves youに感動し、1年後に同級生の末光清貞くん(リードギター)とベンチャズ&ビートルズ・バンドを組み、文化祭に出演しました。大学入学後も2年間はバンドを組んで、学園紛争たけなわの大学祭で軟派のダンス喫茶を開くなどしましたが、医学専門部へ進級(1970年)して以降、音楽をする機会と意欲を失って、私の青少年時代の音楽ライフは終わりました。
36歳(1987年)開業3年目。ジャズ・ピアノを弾きたい!。ジャズライブ・ハウスで感じた小さな衝動に突き動かされて、ジャズピアノを習い始めました。以後27年間、思いがけず、後戻りしませんでした。辛かったのは、ピアノを始めて4年を過ぎた頃でした。松山に小編成のアマチュア・ジャズバンドが見当たらず、ジャズ仲間が集まる定例のイベントもなかったからです。その後、幸運に恵まれてバンドに入れましたが、3年間ほどは出口が見えない暗闇を手探りで歩く孤独感を味わいました。
1997年に「ジャズピアノ10周年記念ライブ」を自主開催しました。たくさんの友人が祝ってくれました。
10周年記念ライブを終えて、「節目を越えた」と得心しました。10年目以降は現在28年目まで、いろいろな編成のバンドで年5〜6回のライブ演奏して楽しんで過ごしてきました。
2003年ジャズピアノ歴16年目に「松山おいでや!ジャズ・ストリート」を代表世話人として立ち上げました。年1回新春に開催して、2014年で第12回になりました。松山近郊で活動しているジャズ・ミュージシャンだけで運営し、演奏し、地域のお客さんに聴いて頂く、「地産地消のジャズ」を謳うイベントで、「プロ・アマチュアを問わず、ジャズにひたむきな気持ちで自主参加するジャズ生涯教育イベント」と定義づけました。毎回5〜8の開催店に、20〜25バンド、60〜100人のミュージシャンが、夕方5時から10時の5時間にわたって演奏し、400〜600人のお客さんが聴いてくれています。ジャズ・ストリートを始めたときには「私がジャズを始めた頃の孤独感を後輩に味わせたくない」と言う気負いがありました。ジャズ・ストリートのために費やす時間や心労は多いのですが、医療と違う業態に関わる鍛錬と経験が、補って余りある財産になっています。

私は「ジャズ・ピアノを弾くこと」を趣味にしています。けれども、ジャズや音楽にさほど熱心ではないようです。年に30回程度、ライブやコンサートに足を運びますが、「世界的ピアニスト」とか「日本屈指のジャズ・プレイヤー」とかのコンサートにはあまり行きません。ビンボー耳なので、世界サイコーの演奏を聴いても「豚に真珠」なのです。「プロ・アマを問わず、ジャズやクラシックなどのジャンルに関わらず、松山に在住で活動している演奏者たちの、入場料がお手頃価格な音楽会」に、気の向くままに出かけています。

私は、松山で、松山のひととともに、松山の演奏を楽しむ時空が好きです。遠くない将来に「松山に居て、音楽を傍においたノンビリとした老いのときが、やって来るだろう」と楽しみにしています。