Amatua おじさん Jazz Pianist
Smiley Tama
 Essay

音楽に関する文章です
INDEX
 弾き手はいじけています  副題 上手な誉め方
 ジャズライブのご案内
 いまどこ
 エレキバンド
 ライナーツノート
 今治ジャズタウン見聞記
 今治ジャズタウン2000感想記
 田舎者おじさんのジャズ感  強烈的自己弁護
 今治ジャズタウン2001感想記
 F夫君とJ子さんの物語
 大人になってから始める音楽教育研究を期待する
 ライブにおける著作権法を嫌悪する
 昼下がりのビール
 ヴァンガード・ライブ訪問記
 F.K.トリオのライブのご紹介
 「一期一会の創造」と「サウンド創り」
 応援しよう
 大衆芸能(音楽)の支援・保護について
 モナリザの首飾り
 ジャズの歌唱技法への個人的願望
 なにはともあれ破顔一笑
 ジャズストリートを開催して
 ジョビンを想って
 オーネット・コールマン
essay 弾き手はいじけています

 おさらい会などで、「お上手でしたね」と聴き手が誉めると、出演者は身をよじらせながら「ダメー、ゼンゼンだめでしたー。あがってしまって、モー、、ウンぬん」と応える。おさらい会でしばしば見かける光景です。この対応は人前で演奏する者の心構えとして間違っているので、直さなければなりません。「ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」。これだけで、いいのです。本当はもっと格好良く応えたいところですが、演奏直後の素人はコーフン状態でマトモに頭は働きませんから、これでいいのです。一方、誉める方も「よかったよ」だけでは、受け手も会話の続け様に困ります。上手な「誉め方」を修得して「よい素人音楽の聴き手」になりたいと思います。
 僕がよい聴き手になりたいと試している方法です。。
1)まず、プロの演奏を聴いて耳年増になった自分の音楽的基準を変える必要があります。演奏者は素人ですからヘタは当たり前、「誉めることがモクテキ」と心構えをします。
2)演奏を丁寧に聴きます。後で「何処が良かった」と言えるように、「いいところ」を聴き探して覚えます。悪いところは「忘れます」。
3)見つけた「いいところ」を格好良い誉め言葉に出来るように考えます。素人の技術は誉め難いですから総論的にまとめるようにします。「曲の構成をよく理解した知的な演奏だった」とか「サビの弾んだ気分が私には気持ちが良かった」等です。
4)演奏が終わったとき精一杯の拍手します。弾き手が拍手する私に気づいてくれれば成功です。
5)そして誉めるタイミングを見計らい、さりげなく近づきます。
6)弾き手との会話になったとき、演奏の悪いところは「一切忘れてしらばっくれます」。これがポイントです。多くの素人演奏者は自分が失敗したところを言い募り懺悔します。そこに引き込まれてしまうと泥沼です。「そうでしたか、気が付きませんでした」と流します。
最後に「楽しく聴かせて貰いました」と言えると最高です。簡単そうで結構ムツカシイのです。
Smiley(^-^)Tama 平成10年です。おさらい会の常連になって、少し周りを見る「ヨユーが出来たこと」を表現したかったのかもしれません。
essay ジャズライブのご案内

ジャズライブのご案内です。
「松山に文化の輸血を」が詠い文句の大出血イベントです。
安いです。2000円。
売れていません。売れるはずがありません。

テープを聴きました。ものすごくウマいです!!
繊細で正確、メロディカルなドラミング、
透き通る正しい声、細やかで力強いピアノ、
素晴らしいです。

これほどのテクをもって、これほどの情熱をもって、
なぜ、これほどまでに売れない音楽を創るのだろう?
そんなチケットを買ってみませんか。

お申し込みはとりあえず、私にまで、、、。
Smiley(^-^)Tama 平成10年前衛ジャズを志す若手ジャズミュージシャンのライブのチケット売りです。この種の音楽は「ほんとう」のことを説明してから買って貰わないと、後で恨まれるので気を遣います。
essay いまどこ

 「いまどこ」という言葉をご存じでしょうか。音楽をする人、特にアドリブをする人の慣用句です。漢字にすると「今、何処?」。「いまー、どこ ̄」と切らずアクセントもつけずに、「IMADOKO」と一気に読みます。「いまどこ」は私たち初心者のアマチュア・ジャズ・プレイヤーにとって、もっとも恐ろしい事態です。
 ゴルフにHD36があるように、ジャズ演奏にも演奏を楽しむための最低技量水準があります(あくまでアマチュア音楽の話ですよ)。楽器演奏を趣味にする人が、ゴルフに比べて圧倒的に少ない理由(注:松山の中年男は絶滅状態。)は楽器演奏のHD36は到達するまでが大変に長い、ということに尽きると思います。さて、ようやくHD36に達した(自己申告制です)ジャズビギナーにとって最大の悩みが「いまどこ」こと、「今、何処を演っているの?」なのです。
 ジャズにはアドリブという、演奏者が原曲を変化させて勝手に創るパートがあります。アドリブはジャズ演奏者にとっての「華」です。自分を表現する見せ場、聴かせ所なのです。アドリブ・パートでは旋律は自由になります。が、曲の進行は全員が予め決められた通りに遵守することを必須とします。アドリブをとる人は進行を守って、旋律を創っていかなければなりません。自分のアドリブがバックとぴたりと合い、そして思いもかけないよいサウンドが流れたときの驚き。正確にうねるスウィング、たおやかに流れる和音進行、深く刺して耳に残る不協和音、不協和音を輝かせる早く長い協和音のパッセージ。気分はすっかりハンク・ジョーンズ、 ューク・ジョーダンです。至福のときです。(自己陶酔の世界です。客観的な評価は無視します)
 「参考」
 ジャズは和音にない音、調和しない音(不協和音)を大切にします。不協和音の刺激感、攻撃性、不快感が好まれるのです。演奏者は不協音も調和音と同じく意図的、計画的に創ります。それをはずさすよいサウンドにできる人が上手です。残念なことに僕の場合は神頼りです。僕の意志に非ずして神がお導きになった音(ミス・タッチともいいます)が実に不協で、それでいてとってもいいときがあるのです。神のご来降です。大切なことは、その瞬間は僕の意志では決して再現できないということなのです。それは上手の手でも同じで、まったくの同じサウンドを再現することはできないし、再現することに努めることもよしともしないのが、近頃のジャズ気質なのです。全員の音が偶然に輝く瞬間を期待して、演奏者も聴衆もジャズのアドリブを楽しむのです。「参考 おわり」

 さて憎っくき「いまどこ」です。それは気分はハンクでアドリブをしているときにやってきます。「あれ、おかしいな。音が合わない」。悪い予感です。不安げにアドリブを続けます。「合わない」。これでもう、フレーズなんか考える余裕はありません。「いまどこなんだ。いったいどこをやっているんだ。ここか。あそこか。これでどうだ」。困ったことに、この病はときに人にもうつります。朱に交われば赤くなる。共演者もそうこうしているうちに「いまどこ」にかかるのです。そうなったら、本当にズタボロ、グシャグシャです。神のご来降はなく、悪魔が高笑いしています。そんなときでも我々は健気に演り続けます。終わることができないからです。(注:人前で演奏する際の最も重要なマナーは「絶対に止まらない、途中でやめない」ということです)当然ですが、そのときのアンサンブル(いまどこサウンド)はものすごいものです。この世のものとは思えません。居合わせた聴く側の人々には、ただただ「お気の毒に」としか言いようがありません。 
 甘酸っぱく残る青春の思い出。どこかで味わったこの気分。はじめての扁摘。教科書で何度も手順を確認し暗記して、いざ執刀。今日は僕が主役。「気分は財前五郎」(古いかな。白い巨塔です)。出だしは上々。目論見どうり。しかし憎っくき出血。被膜は一体何処に行った。出血多量。とにかく取らなきゃ。掘る。掘る。ひたすら掘る。ドス黒く光る血の海のなかを掘る。「いま、どこ」「僕はどこを掘ってるの」。「この手術は終わるのだろうか」。背中を流れる冷たい汗。永い永い時間。
 さてこの8年間の練習の中で得た、高等テクニックをお教えしましょう。曲中は、食う、吐く、詰まる、急ぐ、遅れる、滑る、飛ばす、いまどこする(業界慣用句です)悪行の限りを尽くしてようやくたどり着いたエンデ ング。さあ、秘技ともいえるウルトラCテクニックの披露です。
 お教えしましょう。ドーンとエンドしたら、客席に顔を振って「破顔一笑、スマイル一発」。これが大逆転の秘術なのです。いままでの悪行のすべて容赦する「南無阿見陀仏」なのです。幸いなことにジャズは変拍子、不協和音が特性の一つです。運が良ければこの自信に満ちたスマイルで、聴衆はいままでの「ものすごく汚い音」はひょっとして「ジャズだったのではないか」とうろたえるかもしれません。心で泣いて、顔で笑う。スマイル一発。笑ってごまかす。ピアノと格闘8年間で覚えた僕の必殺技です。
Smiley(^-^)Tama 平成10年会報への投稿です。
essay エレキバンド

僕は一人遊びが多かった。夢中になったものを学年順にすると、プラモデル、日活青春映画(ポルノではない)と石坂洋次郎の小説、ビートルズとポップス、洋画と白人女優、ギターとエレキバンド、ボーリングだ。僕が倍賞智恵子や本間千代子の熱烈なファンだったことを知ってる友人は少ない。歌謡曲も大好きだったが、かっこ悪くて人には言わなかった。 いろいろあったけど、やはり一番爽快だったのはバンド演奏だ。父はギターを買うことを許さなかった。中2のとき、自前で赤いアコースティックギターを手に入れてY.N.の家に置いた。Y.N.の家は国鉄前にあってご両親は昼間仕事でいなかった。学校帰りに寄った。の家の応接間は僕の最高の遊び場だった。ホッケーゲームに夢中の時期もあった。自宅でコード表の押さえ方を確かめて、翌日ギターで練習した。Y.N.は器用で覚えは早かったが上達したのだろうか。
 歌謡曲と9500万人のポピュラーリクエストを聞いていた僕に、ビートルズのツイスト・アンド・シャウトとベンチャースの十番街の殺人は衝撃だった。中3からK.S.(リードギター)と彼の弟(ドラム)、それにT.M.(リードボーカル・サイドギター)とでバンドを始めた。僕はベースだった。ベースになったのはギターが下手だったからだ。鉄筋新築のS邸で「おじゃましま 〜〜〜す」と2階に駆け上がるときの胸の高鳴りは思い出して切ない。待ち遠しい一週間だった。
 高2の文化祭に出演した。不思議と前後の記憶が薄い。講堂だった。三色ピンライト照明もあったと思う。Mが発熱で出れなかった。急遽僕とSで歌った。「バラ色の雲と 〜〜〜」の歌い出しの瞬間の興奮は、僕のその後の人生に影響を与えているに違いない。
 この演奏を最後にS兄弟はバンドをやめた。新しいバンドを組む話し合いしたことをおぼろに覚えている。バンドはH.K.の家に移り、メンバーはK(ギター・ボーカル)、M(ギター・ボーカル)、T.N.(ドラム)になった。 高3の文化祭は運動場のステージだった。このときの記憶は新しい。エレキギター禁止の校則との兼ね合いを「アコースチックギターにマイクを入れること」で妥結した。僕が交渉したのだろうか?。演奏を始めると、校舎の窓から一斉に顔が出てきた情景を鮮明に記憶している。演奏の終わりがけにH教師が校舎の端からゆっくりとステージに向かって歩み寄ってきた。その永い時間も覚えている。中止の指示だった。H先生は黙認の限界までやらしてくれたのだと感じて、僕は先生に感謝した。不思議な感覚だった。愛用した赤いギターは無理な使用がたたってその場で壊れた。その後、バンド結成は校則で禁じられた。
 息子が入学した。校則の最終条にバンド結成禁止の条項があった。にもかかかわらず文化祭では生徒達がロックをやっていて僕はしばらく聴いていた。下手だが当時の僕達よりは巧いのかもしれない。息子はあの校則は完全に死文化していると言っていた。
Smiley(^-^)Tama 高校の同窓会誌の原稿です。感傷的で恥ずかしいです。
essay ライナーツノート

岩浪氏と巨泉氏共著のライナーツノート集を読みました。1950年代に若き2人が書いたライナーノート集です。感慨はこの文集のもつ即日性でした。私達はこれらのレコードを2000年を前にして聞いているけど、「このレコードは1950年代に録音され、その時代に人々は聴いていた」という、当たり前といえば当たり前のことなのです。
 60年安保(僕は10歳)の騒擾のなか、真っ暗なジャズ喫茶でコーヒをすすりながらコルトレーンを聞き、マイルスにのめりながらマルクスを語る。アメリカ文明と文化の明るさに眩みながら、安保反対を叫びジャガーのニューモデルに憧れる。そんな頃、僕達より一足先に社会に出た人達が書いたライナーノーツなのです。
 ロックンロールにやっと耳が慣れ始めた頃、ビートルズの出現は驚きでした。同時期にビッグバンドが断末魔を終えたことは知りませんでした。ビッグバンドの終焉、コンボの興隆、そして大衆とジャズの乖離という激動期を彼ら先輩達は「その時点その時にどのように体感したのか」を教えて欲しいと思いました。
Smiley(^-^)Tama 岩浪氏と巨泉氏共著のライナーツノート集の読後感です。両氏は私の憧れの人でした。当時彼らが20代だったことを認識して感慨がありました。
essay 今治ジャズタウン見聞記(1999年)

ポスターをクリック
Smiley(^-^)Tama 平成11年8月、しまなみ街海道の開通を記念して今治市でジャズタウンが開かれました。その見聞記です。気のあった仲間へのメーリングリストに連載したものです。
essay ベートーベンの下心

★エリーゼはピアノが下手だった。そして飽きっぽかった。
  (が、エリーゼはムチャンコいいおんなだった。)
★エリーゼでも弾けると思う曲を創ってプレゼントした。
  そして手取り足取り教えた。(ホカのところも取ったかどうかはフメイ)
★エリーゼが弾けないところがあったら、さっさと創り替えた。
  (はやくモクテキにイキたかったから)。
★そしたら、誰にでも弾ける名曲が出来た。
  (貴方信じますか?)
Smiley(^-^)Tama 「エリ−ゼのために」を弾いてみました。まあまあ「しよい曲」です。どこにも飛び跳ねて難しいところがないのです。この曲はエリーゼという若く美しい未亡人に贈ったのだと覚えています。そこで湧き上がる私の妄想的推論。(^_-)-☆
essay 今治ジャズタウン2000感想記録

 3時26分の列車を待つ。暑い。昨年今治ジャズタウンに通った5日間の感触がじんわりと戻って来た。弾み始める心地よさ。スイング・キッスの駅構内ウェルカム演奏に遅れたのが残念。申し訳なし。平尾さんをはじめ、バンドのみなさんに心の中で感謝。
 公会堂まで早足で5分、太りすぎの罰がたちまちに出て全身汗だくになる。公会堂前にパラソルが開いて祭り気分がある。30人程がビールを楽しんでいる。「やーやー1年ぶりだね」の挨拶が楽しい。入場料2500円也。安い!!。今治市に感謝、実行委員会に感謝。
 なにはともあれ今治ジャズタウン特製のタオルをゲットしなくてはいけない。特製タオルを首にかけて、汗を拭きふき聴くのがトレンディー、と信じて疑わない。と、いきなり「タオル如何ですかーーー」の黄色い声がかかる。ボランティアのおねーさんたち(おばさんともいう)だ。うれしい。今治のおねーさん達は気分がいい。今年のタオルは黒白。イケてる。ふつうのタオルの半分幅なのも特徴だ。早速袋から取り出して首にかける。気分が出る。昨年の黄色と青のタオルをかけている人がいる。Jazz Town Forever、いいね!!。僕も持ってくればよかった。来年はタオル3本、首にかけようか。
 伊藤建造トリオは終わっていた。残念。申し訳ない。伊藤氏はこの3年間多くの上手と競演しメキメキ力をつけてきた。新しい系のジャンルが好きなようだがオールラウンドでこなせる。心臓外科医・ジャズピアニスト・家庭人の3足のわらじは肉体的にも時間的にもこれからが正念場か。
  SALTY DOGはニューオリンズ系、楽しい。女性のトランペッターとクライネットも特徴。3年ほど前グレッジの木曜日に乱入してきて一緒に楽しんだ。明る過ぎるおじさん(井出氏)とマイペースおんな軍団の組み合わせに妙がある。ニューオリンズは楽しい。
 藤本忍&エモーションはいつもながら元気がはじけている。もちろん美しい。今回のコンサートは8組のバンドが次々と出演するトコロテン方式なので、制限時間が厳しい。だいたいこの方式は予定時間があってもない状態になることが多い。1時間おすことも珍しくない。今回の運営は見事だった。出演者みんなにスケジュールを大切にする気概が感じられた。で、藤本氏は普段ならどんどん盛り上がって1曲30分なんてことも珍しくないのだが、ボーカルを交えてきちり4曲30分。本人は不完全燃焼だったかと推察する。が、出し切らず、藤本氏の凄腕が伝わって、僕は好きになった。
 休憩時間の前広場はビールを求める人で雑踏になった。長く伸びた日影に身を置いて,温かい風に吹かれる。乾ききらず首筋を流れる汗を特製タオルで拭いながら冷たい喉ごしを堪能する。スピーカーから垂れる音がないのがよい。ライブの休憩は人声が似合う。
 後半は辛島文雄トリオで始まった。うまい。好みではないジャンルだけれど感動がある。好きな人にはたまらない時間だろう。音が強く繊細に跳躍し、賞賛と驚嘆のため息が漏れる。ジャズはこの先また変わり始めるのだろうか。変化の兆しを見るまで僕は生きているかな?。CDを求めに行ったら、さっさと売り切れ。人気です。
 ダニー馬場さんはちょっとジャンル違いのソウル。カントリーとも聞こえた。昔大好きだったのに、今日はもうひとつ乗れない。僕はすっかりジャズおたくになったらしい。幅広く音楽を愛する心の余裕が大切ですね.。
 プログラムは企画者の力量の見せ所だ。ミュージシャン各々の音楽と生い立ち、人柄までを組み込む熟慮が望まれる。このプログラムは見事だ。配慮はあるが遠慮はなく、ジャンルが跳躍しても戸惑わされない。
 栗田敬子トリオが会場をジャズの世界に戻した。私にとっては、このトリオが最も今に近いジャズだ。私とは松山に居て、そこそこジャズが好きで、50歳を目の前にした男である。ニューオリンズの発祥は歴史だし、プロのビッグバンドの存在は幼児記憶で、モードに驚き戸惑ったのが青春で、フュージョンを若者のジャズと分類する。このトリオは祭りや酒場の音楽ではないが、芸術や自己表現を気負ってもいない。抑鬱や無邪気な溌剌は感じさせないが畏れを知っている。ピアノ40,ベース50,ドラム60歳という10歳ずつ開いた年齢が調和を保っている。好ましい。
 ペットが入って古くさくなった。栗田敬子の弾き語りは和みがある。スリルはない。自分の歌の背景創りを自分でする良さでもあり、限界でもあり得る。上手のピアノが作る音場ではどうなるか興味がある。
Smiley(^-^)Tama 2000年今年の今治ジャズタウンは今治市が主催しました。アマチュアのジャズストリートはなかったけれど、内容はとても濃かったのです。これは第2日目の感想記です。
essay 田舎者おじさんのジャズ感・強烈的自己弁護

我が父(故人、生きていたら86歳)は唱歌を歌わすとなかなかの名手だったが、フォークソングを歌うのにも必死の手拍子を打っていた。彼は生涯8ビートのノリを得なかった。リズムは幼少時の音楽体験が大きな要素であると思われる。民族音楽が脈々と伝承され独自の体系を形作るのを思えば、親から子への伝承の影響の大きさが理解できる。その点で北アメリカ共同体の伝統音楽になりつつあるジャズを学ぶことは日本人には不利であり,、伝統の相互理解という範疇を越えて執着するのは、ある種無用の行為ですらある。ましてや青年期までごく限られたメディアからしかアメリカ文化に触れ得なかった田舎者のおじさん族にとっては、かの共同体の音楽伝統の修得は至難の業だ。さらにジャズはまだその価値観・体系が定まらず刻々変化している。おじさん族が青年期に日本で聴いたジャズと現在のそれとではかなりの違いがある。それは知らず知らずのうちに変化しているので、ジャズをずっと続けているひと達にはかえって認識することが困難だ。若者が語れないのは更に当然といえる。そのため、おじさん族のジャズ感と「現在よし」とされるジャズ感とにはしばしば隔たりがあり、その狭間にジャズを中年になってから始めたおじさんの苦悩がある。巷に流れていたラウンジピアノをジャズと思って習い始めたおじさんは、自分が弾きたい(と思った)音楽と現在のジャズ感とのギャップにまず驚かされる。そしてその違いを訴えると、50年代のアメリカジャズのレコードを聴かされて、現在との相似性・連続性を指摘され、おじさんの音楽認識の稚拙さを嘲笑される結末となる。しかし本文で私は、おじさんの耳がボロいだけではないと弁護し、当時の一般的日本人がジャズと呼んだ音楽は、おじさん達の耳に現在残っているものに近いものであったと強弁したい。ボロいピアノ、日本人の小さな手、受けたことのない音楽教育、一部のひとしか直にジャズを聞くことは出来ない時代環境、再現性の悪いレコードとオーディオ機器、既存の日本音楽感とジャズとの感性融合の必要性などの諸条件が、当時の一般の日本人のジャズ感を形作っていたことは間違いない。「上を向いて歩こう」「爪」などのジャズ・ジャンル・ミュージシャンが作曲した歌謡曲が、哀愁と明るいたくましさの融合など、当時の日本が望んでいた新しい感性を新しいメロディー(コード進行)にのせることにより、それがジャズ風として熱狂的に大衆に迎えられたことの意味は、当時の社会状況と音楽環境を知らなければ理解できない。さらに遡れば、ブルースの女王と呼ばれた音楽が、もし音楽的に北アメリカでのブルースとは趣を異にするものであったとしても、当時の日本人には「同じ音楽(ブルース)」と感じられたのだ、と容認しなければならない。
アメリカ本土でのジャズは、黒人差別に対する抵抗運動のさなかにあって、ジャズという黒人優位のジャンルが認知された解放の明るさと、その反動による白人排他の逆差別から生じた、ある種歪んだ優位の精神が根底に流れていたことを多くの人が語っている。日本においては情報操作により人種差別の現状はさほど理解されなかったが、その音楽性はどこかよどんだ内向性が故に、労働者を中心にする当時日本の社会運動や学生紛争と相まって、ジャズの暗の部分が高く評価される傾向が確かにあった。その人達はコルトレーンを高く評価しオスカーピーターソンを明朗軽薄として蔑視した。が、当時の日本の遊興層に受け入れられたのは内向性のジャズではない。裕福で先進の戦勝国アメリカへの憧れを求めて散財する日本人に、アメリカの輝きを提供したジャズミュージシャンはラウンジピアノ、ビッグバンドなどダンスミュージックと呼ばれる分野であった。当時の日本人ジャズミュージシャンは本場の黒人ミュージシャンより、より多くの余剰利潤の配分を享受した。日本人ジャズミュージシャンも、ダンスミュージックで「つまらない音楽」をやったあとに「価値ある音楽」を仲間内のコンボ演奏でやるという、黒人と同様の音楽経験を経てモダンジャズを修得してきたと推察する。が、そこには人種差別などの暗い認識があったとは思えない。むしろリッチなモダンボーイとしてのエリート感が支配していたように思える。黒人が白人と同じ便所に入れるようになったのは1960年(北部)であり、黒人に大学入学が許可されたことが「人種差別のない国アメリカ」として世界的に大々的に報じられたのは1970年である。その時代を知らない若者達のジャズ解釈がおじさん達と違うのは当然に過ぎる。ジャズを暗く感じるおじさんはどこまでも暗く湿り、明るいと感じるおじさんはどこまでも明るく楽しく感じてしまう。それは幼児音楽的体験がもたらすものであって後日、情報化時代が訪れて真相はこうだった、と教えられても容易に解決することではない。
音楽感は聴くだけの場合はさほど問題にならないが、やるとなるとやっかいな障害になる。特に若い人との認識の差はうっかり論争になるとおじさん側が必ず敗北し、それはジャズを愛してきた田舎者のおじさんの永年の認識と存在を否定して、時として嘲笑の対象となり、多くの場合は自嘲となる。日本で誕生したものは日本で永年生きている人の感性や意見も尊重されるが、外来物は外来そのものが真とされ、国内での変化や順応は許されない。情報化が進めば進むほどにそれは動かしがたくなる。日本人が得意とする真似の文化が徹底化し、伝来文化が伝わる以前に生きた日本人を侮蔑の対象とする。若者達は日本の先達を訪ねずニューヨークを誇る。おじさんの心の片隅に残る戦前と戦後の一時期に日本順応化した和製ジャズは、おじさんの青年期以降は衰退の一途を辿っている。しかしいつの日か、再び日本順応化したジャズが謳われるときが来るとおじさんは信じたい。日に日に失われる日本的な音楽感がその日まで持ち堪えられるかどうかは、むしろおじさん達の感性の頑固さにかかってのかもしれないと思う。
Smiley(^-^)Tama 平成13年です。いつまでたっても上達しないイラダチを自己弁護してみました。
essay 今治ジャズタウン2001感想記

昨夜の土曜日のナイトジャズは行けなかった。1時から無料講習会がある。初めての試みだ。どんな生徒さんが集まるのかも興味がある。11時30分の汽車に独りで乗る。12時着。ゆっくりと駅前の並木道を歩く。大型の台風が来ている。影響が心配されたが進みが遅く今日は無事らしい。甲子園では夕方に松山商業の準々決勝がある。駅前の並木道は静寂。木立が風に揺れる音に山中にいる錯覚を覚える。500メートルほどの長さの広い歩道には私とその前を歩く若いアベック。若い二人も講習会に行くのかな?。と、女が振り返って景色を探している。踵を返して駅に向かい出した。「だから違うっていったでしょ」。すれ違いに甘えた女の小言が聞こえる。昔ながらの食堂と旅館が目立つ。港から汽車駅までの街道の賑わいが偲ばれる。営なみをやめている店も多い。携帯電話の店看板が目に煩わしい。会場の市役所まで街並みを独占した。広い駐車場に人影が2つ。「や〜や〜」と挨拶して公民館に入る。フローアには70前の老夫婦が二組。ジャズ講習とは無縁のよう。和装の展示会をやっている。見て回ると小部屋の扉にベース、サックスと張り紙がしてある。講習会の雰囲気がしてきた。ピアノはどこかな?。楽器の準備が必要なのはピアノとドラムだけどな。分からない。ソファーに座っていると一人、二人と見慣れた顔が増えて賑やかになってきた。結局ピアノとドラムは向かいの公会堂だと聞き、急ぎ移動。ドラムは表玄関にセットされていて、猪俣さんがスタンバイしている。生徒も10人程度と多くて賑やかそう。カメラを向けたら猪俣さんが手を振ってくれた。明るい気遣いの人だ。ピアノ講習会はホール内。ステージの真ん中にピアノ。講師の青木弘武氏の指示で客椅子をステージに上げてピアノを丸く取り囲む。生徒は小学6年生、CDとコピー譜で独学中の若者、50歳くらいのクラシック畑の女性、70歳の元ヤマハ女性講師、ビッグバンドのピアノ(顔見知り)と私。バラエティー豊富。ということはジャズピアノの認識も技術もばらばら。講師はおおごと。で、青木氏は「今日は何を教えて欲しいですか?」と質問から始めた。よい選択だと思った。でも結局質問も幅がありすぎてまとめきれず、ますはジャズのノリの大切さとノリを得るためのコピーの必須性を語った。講習はノリを中心にして進められ、それぞれ受講者が実技をしてそれにワンポイントのアドバイスが行われた。模範演奏を聴いて、この人にピアノを習ってみたいという衝動がおこった。美しく無用の気負いのない音を創る人だ。1時間はたちまちに過ぎて終了した。楽しい時間だった。カメラが来ていると思ったら、僕が大写しでテレビに出たとのこと、汗が出る。
 終わって2時、予想通り5時の開演時間までの過ごし方に困惑したが、猪俣さんのシャトルバスに勝手に同乗して3時に市民の森へ着く。茶色に黒字の記念タオルをゲットして一段落。暑い。市民の森は素晴らしい野外コンサートの会場だ。調律師のTさんと長時間お話。9時入りで11時調律終了で松山に帰宅したのに最終調律も必要と依頼されて戻ったのだそうだ。夕日があたってピアノが煮えている。調整してもすぐに変わるとのこと、結局ケイ赤木さんの演奏が終わる8時まで居残っていた。
K・K・カルテットの若いAsは若年なのに音場を維持する能力を持っているようだ。若者の畏れ知らずがそのまま成長すれば早成、畏れに戸惑い克服すれば大成か?。若者を見ることが楽しくなる歳になった。選曲には疑問あり。このカルテットを引き立たせる曲想はほかにあると思う。I氏のしゃべりは面白くない。音楽をする人の目線でもないし、かといって聴く人の立場でもない。図書館の整理屋さんだ。デュークエイセスが楽しかった。ケイ赤木はすごいが楽しいというジャンルではない。。快活を求める音楽ではないのだろう。グルーブは律動して心の機微に迫るリズム、スウィングは躍動して鼓動に接するリズム、という字句を思い立ったのだがどうだろう。猪俣氏のビッグバンド「ジャズ・オールスターズ」は上手の集まりなのは分かったが、ビッグバンドとしては完成途上か。中にデンタル・ヤマモト氏を見つけて仰天。高橋達也氏の代役とのこと、素晴らしい経験だろう。写真撮影禁止のご禁制を犯して決死のヤマモト氏撮影を決行。猪俣カルテットの「黒いアルフェ」が流れるなか実行委員長の謝辞に感動した。辞頭で委員長がオルフェを歌い出したのでそのまま歌うのかと勝手に焦った。言葉は淡々だったが、この祭りが彼の情熱と実行力で運営されているのを知る者として深い感動と感謝の念が込み上げた。「ちんまくなっても続けられるなら・・」の言葉に苦労が偲ばれる。シャトルバスに乗って10時30分の列車に乗った。11時30分帰宅。
Smiley(^-^)Tama 今治ジャズタウン2001の感想です。1日目のナイトジャズに行けなかったのが残念です。
essay 必ずハッピーエンドにしたい  F君とJ子さんの物語

F君は吉田琢郎を聴いて「フォークソングを歌おう」と思いたちました。それでオリジナル曲を創りました。F君は高校時代にギターのコードを覚えていたのです。歌の練習までは手が回らなかったけど、とりあえずバンドのメンバーを捜しました。しばらくしてバンドのメンバーが集まりました。ギターが上手な幼なじみ(リード)、同じ職場の高校時代にロックをやったことのあるベース、募集でやってきたヤマハで習っているドラムです。Fバンドと名付けました。3コードでイントロして、自由に思いっきり歌って(オリジナル曲なのでコピーはできない)、間奏はギターがテーマをそのまま弾いて、歌って〜、エンディングは揃わないけど、ま、いいか?。1年間、同じメンバーで月2回スタジオ練習、試行錯誤や内部反乱がありましたが、1年後には曲数が10曲になりました。それで自己ライブをすることになりました。大急ぎで、みんなで楽譜を書き直したり、イントロ・エンディングを繰り返し練習したり、厳しいけど楽しい準備期間でした。準備作業を通してバンド仲間との友情も深まったようです。同じ曲を、同じバンドで、同じように100回は歌いました、ライブは義理堅い友達や職場のひとにたくさん来て貰ってすっごく盛り上がりました。その後仲間の転勤などでFバンドは解散しましたが再結成しました。前よりちょっとうまい仲間が集まりました。NewFバンドと名付けました。歌を始めてから3年でずいぶんとうまくなったと思います。オリジナル曲を少しずつ増やしながら続けています。なにより友達が増えたのが嬉しいです。
J子さんはヘレン・メリルを聴いて「ジャズを歌おう」と思い立ちました。J子さんは中学・高校とコーラス部に入っていました。まずジャズ・ボーカルの先生に習いに行きました。先生のピアノ伴奏で半年間で3曲くらいを習いました。「そこが違う」「ここはこう」と厳しい指導を受けました。5曲を覚えました。1年後に教室のおさらい会に出るように言われてAll Of Meを選びました。3ヶ月間、All Of Meだけを練習しました。リハーサルは1回、ひとり20分でした。伴奏の打ち合わせの時間はすごく長かったように感じました。「はい〜いきますよ。」・・・歌う・・・「いいでしょう」「イントロとエンディングだけもう一回やっときましょうか」・・歌う・・「は〜い、ごくろうさま。本番頑張ってね」。なんだか不安でした。おさらい会には両親と親友に来て貰いました。シーンとしたおさらい会の緊張感で足が震えましたが、ま〜ま〜のデキでした。それからも教室に2年間通って、おさらい会にも4回出て、ちょっと自信が出来ました。でも「このままでもラチあかん」とも思い、友達から教えて貰った「アマチュア歓迎のジャムセッション」なるものに行ってみることにしました。そのときになって先生から伴奏の楽譜を貰ってなかったことに気づきました。あわてて赤本というのを買って、自分で楽譜を写しました。楽譜出して「お願いし〜まっす」。・・・・「イントロないね、どうしよう」。そう言われただけで、もうアワアワアワ。「ま、いいか、4小節ね」。なんだかヨタヨタしたイントロ、ピアノもアマチュアだったらしいのです(でもそのときの私は気付きませんでした)。とにかく「歌い出さなくっちゃ・・・・・オ〜ロ〜ビ〜〜〜」。・・・・・・・(;-_-メ;)。・・・止まった。入りが違ったらしい。やり直し。「2小節にしようか」と変わった。・・・・1拍くらい遅れたけど、ま、ま、始まった。うん、ヘンな音、高い!。でも精一杯最後まで歌いました。・・・・「これってキー高くない。きみのキーCじゃないんだよ。それに、ここ、コードへんだよね・・・・あ〜だ、こ〜だ、あ〜だ、こ〜だ。」。いろいろと言われたけど分かんな〜い。真っ白なあたまで席に戻り、どよよ〜んとしずんでました。「お気の毒」ってみんなが見てるような気がします。終わりに1ヶ月後のセッションの案内があったけど「来ようかな、どうしよう。」。誰も声かけてくれないし・・・・。
友達が「あそこはアマチュア・バンドなのよね。アマチュアだとキーがどうのこうのとうるさいし〜、へんな音も出るし・・・。○○○の店はプロがボーカル・セッションのバックしてるんだって・・・」と教えてくれた。「よし、プロのバックで歌ってみよう。気軽に参加してくださいって書いてあるし・・・・」。今度は楽譜を友達のピアニストに書いて貰った。私はキーAだったんだ。・・・・・・「は〜緊張した〜。でもやっぱ、気持ちいいわ〜。さすがプロね。まだまだなのはよく分かったけど、やる気が出てきたわ〜。もっともっと練習してまた来よう」と思ったら、帰りがけ「あんた〜、コピーしてる?。ちゃんとコピーが出来ない人はうちでは歌って貰ったら困るんだよね〜」って言われた。「どうしたらいいんだろう〜、私、ジャズを歌いたいだけなのに〜〜」。歌を始めて3年目のJ子さんでした。 
(続くかもしれない・・・・・必ずハッピーエンドにしたいと思います)
Smiley(^-^)Tama ジャズボーカルをはじめた人達の環境をフォークソングの人達との対比で文章を創ってみました。「フォークソングは安易だ」と私が思っていると誤解されると辛いのですが、フォークソングの世界が明るく楽しそうに見えるのは「隣の芝は青い」からでしょうか。ジャズボーカルを志すアマチュアが楽しく続けられる環境を整えたいと願っています。
essay 大人になってから始める音楽教育研究を期待する

「大人のための音楽教室」が喧伝されている。ゆとりの時代・長寿社会になって「大人のための音楽教育」はこれからの文化社会を形成するために大切と思う。ところで案内を見ると「大人の音楽レッスンの魅力や楽しさをわかりやすく解説します。」とか「ひとり一人のレベルに合わせてステップアップしていけるので(中略)、まったく初めてでも安心です」とある。この文面を見て不安になる。「女性の陶芸の魅力や楽しさをわかりやすく解説します。ひとり一人のレベルに合わせてステップアップしていけるので、まったく初めてでも安心です」と書き換えてもちっとも構わない文章だからだ。
集客のキャッチコピーを見て美辞麗句と批判するのは大人げないかもしれない。内容は「社会生活を営む大人の時間的制約を配慮した企業の応需体制」と「音楽経験の多様性を鑑みた個人別対応」を主柱としているようだ。残念なことに「大人という生物学的・社会学的な特性をどのように分析して、それにどのように対応し備えたのか」という基本が欠落している。巷の民間療法でも「療法に効果があるのは何故か?」という「それらしい理由」を付記している。大人の音楽教育を謳うからには「大人の音楽教育の特性・大人ならではの障壁(社会的ではなく肉体的な)・そしてその対応策など」が示される必要があるだろう。「どのような研究結果があり、それを根拠にどのような教育課程が組まれ、そしてその結果の分析はどうであったか」といった学問的な報告が必要だ。少なくとも「どのような研究を進めているか」程度のことは教育者の責任として明記すべきだろう。
「大人のための音楽教室」は教育現場であることを確認して、教育者としての責任を全うする姿勢を示して欲しい。教育である以上は学問的裏付けが必須だ。音楽教育者に次のことを望みたい。
1)実証主義を徹底する
音楽教育に関しては体系が確立している。しかし、その教育体系は幼少児期からの専門教育に重点的で、大人になってからの趣味的音楽教育には手つかずと思われる。大人になってからの音楽教育を体系化するためには、データの蓄積と分析、特性の把握と解決、実践と結果の分析といった実証的な手法による積み重ねが必要だ。
2)スポーツ医学の歴史から学ぶ
スポーツ医学はプロの選手の健康管理や怪我の治療学から始まった。そして怪我や病気の予防学に進化した。そこまでは医療だった。余談に入る。スポーツ世界は医者に更なる能力を見つけた。効率よく論理的に強い選手を造る方法だ。スポーツ医学が間違った方向に向かったのがドーピングだ。ドーピングとドーピングテスト、そしてドーピングテストを欺く方法等、誤った医学競争の時期があった。ドーピングに依らない人体改造はマラソンの高地訓練で始った。アフリカの高地の選手が勝ったことに端を発し、闇雲の高地訓練により犠牲者が出て、負荷訓練に医者は欠かせない存在になった。わずか40年ほどの歴史だ。プロの選手を強くするためのスポーツ医学は健康人を創る医学ではなくなった。プロ・スポーツ選手が「私たちは健康のためにスポーツをしているのではない。生活の手段だ」と断言したのは象徴的だった。プロ・スポーツの医学は医師のモラルをしばしば問われる分野になった。一方でスポーツへの医学の関与はアマチュア・スポーツの考え方を一変させた。アマチュア・スポーツ世界は「健康のためにするスポーツだ」というテーゼが揺るがない。この分野への医学の関わりは齟齬がない。運動中の心拍数計測等による運動死の予防、怪我をしやすい技の注意や禁止、迷信的で効果のない慣習的練習法の破棄などアマチュア・スポーツに医学は素晴らしい貢献をした。医学は性差、年齢差、個人差と事故率などを統計処理して現場に還元した。そして病気をスポーツで治療するところまで進化させた。現在では医学とスポーツは補完関係と言えるまでに関係を深めた。それに比べて音楽教育への医学の導入はたいへんに少ない。
3)音楽専門教育と「大人になってからの音楽教育学」の差異を明確化する
音楽教育は幼少時からの教育に主眼がおかれて来た。一般学校音楽教育のカリュキュラムに関してはここでは言及しない。学校外の「自己意志で受講する音楽教室」でのカルキュラムは、幼少時から基本をステップアップして勝ち組が音楽大学に入学し、最終的には音楽家として独立するためのカルキュラムの一環と私には感じられる。その長い道程の「どこまでするかはそれぞれの選択」という方式だ。それは主にクラシック系のシステムに顕著と思えるが、軽音楽系の教室にもその傾向を感じる。軽音楽系の教室の教師の多くも音楽大学出身者が多数を占めている。音楽専門教育は音楽指導者の育成を大きな使命としていることの帰結だが、このことは次の問題を包括している。
4)指導者の経験論だけでは導けない
私が注目する点は「大人になってからの音楽教育」を担当する講師のほぼ全員が幼少時からの音楽訓練を受けた人たちであることだ。音楽教育の手法と成果は教師の経験で語られることが少なくない。講師は自分が「小学校で憶えた技術」を、大人になった人たちに「自分が辿ってきた(と思っている)道と同じ道程」で教えていることが多い。「大人が学ぶのと子どもが学ぶのとではどう違うか」と言うことに配慮がなされていない。最近では「大人用の楽譜」が企業から提供されていて、それを教材を使っている場合も多い。しかし「基礎練習なしでの楽譜弾きの指導」にとまどい、混乱していると思われる教師を見聞きする。「大人のための」と謳う楽譜の「どこが大人向き」なのかが説明されていない。有名なメロディーを音数少なくアレンジして、それで「大人用」と表しているのではないかと疑っている。大人への教育に成果が得られず、続出する生徒のドロップアウトに悩みながらも企業方針に従わざるを得ない現場の諦観も感じられる。「大人になってからの音楽教育」は音楽教師の経験論からでは導けない。教師と生徒が同じ経験を共有することが、教育に不可欠では決してない。しかし「指導者が経験していないこと」を教えるためには、「指導者が指導するための学問として、その指導法を体系的に学ぶ」必要がある。その準備なくしての企業の美辞麗句の掛け声は現場の教育者を混沌に貶める。
5)「大人になって学ぶ音楽教育学」の体系化を企業責任として実行する
肝心の「大人になって学ぶ音楽教育学」が体系化されてない。その「研究準備にすら取りかかっていないのではないか」と心配している。「大人になってから音楽を学ぶ」障壁を「社会生活上の時間的制約」と見なす傾向があるが、些末だ。人間としての能力を見つめることのほうが圧倒的に重要だが、こちらは「大人になってしまったのだから仕方がない」と諦められ放置されている感がある。しかし、大人は音楽をするために小児に比べて「どんな能力が衰退しているか?」「それを補える大人の能力とはなにか?」などを検討してデーターを蓄積することは絶対に大切だ。医学はその手助けになると思われる。最も単純なことだが、60歳で音楽を始める男の期待生存率は20年だ。20年以上を必要とする目標は無意味だ。60歳で始める人にはバイエルの黄色本の基礎技術で弾ける楽譜を準備すべきだろう。だがバイエルでは音楽ではない。60歳の男の音楽精神を満足させることは出来ない。生きている間に音楽弾きたいのだから、バイエルの技術で音楽と感じうる楽譜を用意しなければならない。そのカリキュラム編成には大きな責任がある。「音楽演奏上の老化とは何か?」「音楽上の老化は何歳から顕著になるか?」「老化した男の記憶力はどの程度の楽譜の記憶が可能であるか」など蓄積しなければならないデーターは山ほどある。「大人のための音楽教育学」はまさに科学(医学)あるとの認識をもって欲しい。以上のことを「大人のための音楽教室」を生業の一部としている日本の企業に担って貰いたいと期待する。だが今のところは「大人のための音楽教室」を単なる利益誘導のための1事業(ジャンル)として位置付け、集客のみを担って、その対応と責任は現場の講師に押しつけていると思えてならない。企業の果たす責任の姿勢を明確にして欲しいと切望する。
6)カルテを作成して全国的な調査・研究を積み重ねる
人を対象にしていて、なおかつ個人レッスンが中心になる「大人になってからの音楽教育」は個人データーの蓄積が大切だ。「大人になっている」ということは、音楽経験が多種多様なので、基礎データには音楽経歴の詳細な分析が必須だ。「週に何時間練習しなければならない」ではなく「何時間練習可能か」を知り「何時間の練習でどの程度獲得できたか」を蓄積することも不可欠だ。子どもより詳細で明確なデータを集積できるはずだ。学ぶ側の目的と満足度もデータ化しやすい。大人の利点だ。カルテを作成して全国的な調査・研究を積み重ねて欲しい。
7)研究結果を公表する
「大人のための音楽教室」は謳われてから10年が経つ。実際にはデーターの蓄積が行われているものと推察する。たとえば「大人は親指の音が強くなりすぎる傾向がある」と読んだ記憶がある。このようなデーターを集積し、論文にして発表して欲しい。「大人のための音楽教育」を企業のノウハウとして隠匿したり、個人の秘伝としたのでは文化は発展しない。研究結果を報告して次世代の音楽教育に役立たせて欲しい。
8)研究結果を基にした真の「大人のための音楽教育法」を確立する
研究結果が出て報告されれば、それをもとにして更に有効な「大人のための音楽教育法」を確立して欲しい。そのためには「大人のための音楽教育法」の学会が必要だろう。「大人に適した楽譜」等の研究開発も必要だ。そして「真の大人になってから始める大人のための楽譜」を創って欲しい。「大人のための楽譜」はたくさん出版されている。それらの曲集は、みんなが知っている曲で、少ない音使いで、テンポはスローまたはミディアム・スローで、左手は3音のアルペジオ、というものが多い。私からすると間違いだらけだ。少なすぎる音使いで音楽にすることの難しさは容易に理解できる。右手は音が多くても大人は弾けるし、そのための努力は懸命にする。右手のメロディー弾きは楽しい。そのかわり左手は簡略化する必要がある。スローテンポの難しさは常識だろう。左手の3和音アルペジオは大人には難しい。にも係わらず音楽的(特にポピューラーミュージック系)にはバイエルを想起させて素敵でない。2分音符の根音や全音符での2和音のほうがずっとましだ。ましてや、左手のアルペジオ内にメロディーを入れた楽譜を初心者の大人に提供するのは益がない。大人はメロディーを弾きたいのであって、楽譜を憶えたいのではない。さらには、どの指とどの指の対応が大人には難しくて、どのようなタイミングのリズムが憶えにくいか、など検討すべきことは山ほどある。聞き取るべき「大人の生徒の要望」も放置されている。上記の具体的な項目は私個人の小さな経験を語っているに過ぎないので、あまりにも些末に終始している。もっと大きな「大人の音楽能力」に関する研究課題は必ず存在する。それを研究者がチームを組んで研究し、広く公開して論議し、必要な会議を開いて集約し、研究事業にして予算を獲得し、実践して更にデーターを集積するといった明確な理念が必要なはずだ。これからのゆとり世界に向かって、文化の大きな柱のひとつである音楽を「大人になってからも学べる喜び」を正しくする熱意と誠意を音楽企業と音楽界に望んでいる。
Smiley(^-^)Tama 2002年1月29日記
essay ライブにおける著作権法を嫌悪する

音を記録する科学技術は、元来労働対価であった音楽経済に製造と流通を持ち込み、労働対価から製造利潤へと変化させた。その過程において音楽を流通させ提供する手段であった音楽技術者(ライブをする音楽家)の生活経済権の収奪は無視された。デジタル化とコピー技術の発展は録音製品の製造者独占を突き破り、録音音楽にまつわる経済基盤の根拠がなくなった。音楽著作権はデジタル技術開発以前に獲得したアナログ録音時代の既得権への妄執だ。アナログ録音時代に収奪した、それ以前の音楽家や聴き手の経済既得権には一顧だにしないにも関わらず、わずか100年間のアナログ録音時代の既得権に維持に奔走し、抵抗する者には既得権法の強化により牙をむく。およそ文化と呼ばれる分野の本質に所有(独占)権はない。所有(独占)できないものであるから文化と呼ばれると言ってもよい。「既得権を失った者をどう救済するか」を論ずるべきで「既得権で生活しているひとたちがどうなるか」は本論ではない。「音楽の本質部分にも所有(著作)権がある」と強弁することは歪曲だ。それでも楽譜やCDは物であるから所有権等の入り組んだ慣習上の権利がある。しかしライブ演奏に係る著作権は論外の悪法と考える。ひとが記憶して再現することを妨げることは自由自在への侵犯だ。「金を払えばできる」という論は「金を払わなければできない」という点において「できない法だ」。資本主義教条主義者は資本(金)で解決できることは自由だと言う。音楽の自由は、金で束縛しようがイスラムの教えで束縛しようが、自由が犯されていることには変わりがない。罰が、手を切り落とすのか、金を収奪にくるのか、の違いだ。それとても最終的には肉体的拘束(逮捕監禁)が前提だ。少しも変わらない。音楽が製造業の利潤経済から離別して本来の文化経済の姿に戻ったとき、音楽家は再びライブに情熱を傾けライブに経済基盤を見出すだろう。そのとき作曲家の経済基盤の保証がライブ演奏家にとって不可欠ならば、音楽家同士で話し合って利益の配分を考えればいい。現在の製造利潤に群がる経営修士や資本家、既得権に浸かる音楽家の杞憂は無用だ。「ライブに置ける著作権法」は50年を待たず廃棄され、世紀の悪法・愚法と称されると信じたい。
Smiley(^-^)Tama 2002年2月23日です。音楽著作権法は、ライブ演奏に対してあたかも音楽の本質に配慮をしているがごとくに振る舞いながら、現実のアマチュア演奏においても大きな障害となる付帯事項を附して強圧してくることにいらだっています。
essay 昼下がりのビール
 昼から休みだ。ピアノの練習をしなくては・・・。しんどいな。昼食を焼き肉にしてビールを飲んで昼寝をする。思いついたらうきうきした。
 無念。焼き肉屋は休みだった。帰宅して妻がラーメンを仕立てた。ビールを飲みだしたらあわただしく息子と外出。大学下宿用の買い物らしい。妻は張り切っている。残されてビールを飲む。足元にモグ(我が家の犬)が寝そべっている。足を載せて遊ぶ。迷惑そうだ。眠いらしい。僕がソファーにいくとモグもノタリと自分のソファーに上がる。おやすみ。すぐにモグの寝息が聞こえ出した。昼下がりのビールと仮眠。幸せかな。
 起こされた。モグが顔を舐めている。追い払ったがまた舐める。散歩の催促だ。5時。春の日暮れはまだ早い。モグの焦りが伝わる。妻たちはまだ帰っていないらしい。起き出して茶を入れる。モグは跳ね回って誘っている。行ってやろう。
 出て200メートルの角に50p直径の置き石がある。ションベン石と名付けている。夕方はいつも濡れている。モグが駆け寄って小便をかける。丹念に臭ってまた小便をかける。ピアノが聞こえてきた。モグの散歩を初めた頃は「エリーゼのために」を弾いていた。9歳くらいと聞いていた。今は高校生だ。自在にリストを弾いている。若い力は素晴らしい。羨ましい。私は老いたのだな。がんばりなさい。私もがんばろう。
 たこ焼きの匂いに誘われた。大きな玉がウリの店だ。求めた。白いビニールをぶらぶらさせて歩く。散歩中のひとたちと次々にすれ違う。目礼を交わしながら歩く。どの犬も嬉しそうだ。モグが糞をした。大きな玉を5つ。屈み込んで拾う。うんっ、白いビニール。糞を入れる袋も白いビニールだった。たこ焼きと混ざりそうで気が悪い。左右の手に分けて持つことにした。ぶらぶら、ぶらぶら。こっちがウンコ、こっちがたこ焼き。散歩ぶらぶら、ぶらぶら。こっちがウンコ、こっちがたこ焼き。
 日が傾いてきた。帰ろうかね。そろそろ妻たちも戻るだろう。たこ焼きでビールにしようね。夕食はなんだろうね。
Smiley(^-^)Tama 2002年3月1日記
essay ヴァンガード・ライブ訪問記
ヴァンガードに行った。列車に乗って駅弁を食べる。動き出す前に食べ終えてしまった(^_^ゞ。サッカーワールドカップの雑誌を読みながら1時間で西条駅に着く。出て正面真っ直ぐの大通りが駅前通りとのこと(当たりハズレのないネーミングだ)。小雨の中、駅前通りを約10分徒歩、途中水たまりで靴を汚してしまった。列車に乗るとき現金手元不如意に気付いた。
もし店に知り合いが居なかったら帰れない。ちょっと心配。一目で分かる派手な建物。階段の上がり口に「k・k・カルテット・ジャズライブ」の案内あり。ひと安心。上がり正面に扉、音が漏れてくる。始まっている。オズオズと開けてF夫妻と目が合う。やあやあ挨拶。カウンターにチケット購入を申し出る。チケット代があるやなしやの財布。後払いでいいとのこと、安堵(^_^)。店は30畳くらいか。長方形。カウンターに8席、ボックスに6テーブル30席がある。メニューはお手頃価格のフードと飲み物。ジャズはマスターの趣味らしい。Now the time、アルトサックのMさんが目一杯吹いている。一曲目らしいがいきなり全開発進だ。いいバンドになった。今までの松山のプロ・コンボになかったサウンドに仕上がっている。いい〜。足を伸ばした甲斐があった。まだバンド名がない。名がないだけでなく、今晩が最初で最後のライブになった。
 店でのMさんの評価は高い。Fさんのベースソロは客のうなりと笑いをとった。素晴らしい。DrのSさんは以前よりは刻むようになった。が、盛り上がると刻まず場を創る。いいな。Kさんのピアノはキケン感が出た。いい〜。ピアノは随分と古いものらしい(終戦直後の製品とか)。ピアノに1本マイクが入れてある。天井に2本大きなボーズのスピーカー設置。ボーカルの音はいい。ベースアンプ・ドラムも店置き。音響もいい。環境が整っている。
 4曲で40分ステージが終わった。お金を借りて一安心。飲み始める。飲む。どんどん飲む。2ステージ目の中頃から酩酊。前席に移動しておじさんはわめく。気持ちいいな。終わってFさんにマスターを紹介して貰って、僕たちのアマチュアバンドのライブをお願いして、また飲んで11時15分店を出た。料金チャージ3000円を入れて6600円。安い。一杯600円かな?。雨はやんでいた。列車は8分遅れ、松山終着とのことにて爆睡。12時40分松山着、帰宅1時。
 以上、ヴァンガード訪問費用:旅費 往復JR代 3200円(ちょっと不確か)。食費 駅弁+ビール2本 1600円。ヴァンガード飲み代  6600円(チャージ3000円含む)。雑誌代 400円。総計 11800円。
Smiley(^-^)Tama 2002年4月6日記
essay F.K.トリオのライブのご紹介
F.K.トリオのライブをご紹介します。トリオを組んでCDを出して、なおかつライブツアーをしているということはサウンド創りが出来てるってことです。松山での急場編成とは違います。F.K.氏が25年以上世界中で活躍してきてたどり着いた至上のメンバーNY在住のY.I.(b)とS.O(ds)、って謳うのは本当です。Oさん、昨年モカモカで一緒に聴きましたね。S.Oさんはあの天才ドラマーです。モカモカでは簡易セットだったけど素晴らしかった。ジャズに興味がない方々にもお奨めできます。ジャズの一流品です。最高のテクニックをもった中堅ベースとドラム(新主流のベースとドラムは最近のニューヨーク育ちが聴き応えがあります)を老練(と言っては失礼か?)のピアニストが率いるトリオは一聴の価値があります。驚天動地のテクニックをお楽しみ下さい。
Smiley(^-^)Tama 2002年5月27日記
essay 「一期一会の創造」と「サウンド創り」
フランスとカメルーンの敗退を見て興奮している。ヨーロッパのサッカー強国が苦戦している。ヨーロッパ・リーグの興隆はプロ選手の個人技術の向上を促したが、高額のギャラにつきまとう銭闘がために精神の荒廃が忍び寄っているのではないか、との疑念をもっている。フランスとカメルーンの予選リーグ敗退を私は「銭闘や私生活を優先して遅れて来たチームは帰った」と結論した。翻ってジャズ世界も、よい音楽を創造するためには、いかに上手でも、メンバーを組んで自分たちの思い描くサウンド創りを目指す過程が必要なのではないだろうか。どんなビッグネームでも、明らかな東京バンド(外国人ビッグネームが東京に来て初めて顔合わせするメンバーのことを僕はこう呼んでいる)が本当によいジャズを提供しているのかどうか疑問に思い始めた。ジャズは「一期一会の創造」との発想に異議は唱えないが、それでもサウンド創りは必須・大切と信じる。フランスとカメルーンの敗退を見てその意を強くした。
Smiley(^-^)Tama 2002年6月12日記
essay 応援しよう
僕は30年来のサッカーファンだ。自分ではやったことはない。大学サッカー部の応援に誘われ、日本リーグを観戦し、1970年メキシコワールドカップのベスト8戦を深夜テレビで観て、サッカー好きに火がついた。
僕はサッカーファンではあるけれども、日本チームの熱烈なファンではなかった。ドーハーでの敗戦は口惜しかったが、元々日本がワールドカップに出場できるなどは思い上がりだと思っていたし、フランス大会での全敗は残念と言うより恥ずかしいと思った。だいたい僕はサッカーに限らずオリンピックでも「にっぽん・にっぽん」って愛国的熱烈応援を見ると、斜に構えてしまう嫌な気質がある。そんなわけで今回のワールドカップでも初戦を熱く応援したが、どこか一歩引いて観ていた。そして失った2点を敵に相対せずオフサイドの罠にかけようとするフラット3の愚行と評していた。
サッカー熱烈ファンの友人がいる。彼は現在もサッカープレーを楽しんでいて現場にとても詳しい。その彼が予選リーグが始まってから、技術面での批評や批判をやめた。そして会場に足を運んでひたすらの応援をしている。彼からのメイルの「観戦ではなく応援してきます」の一節に僕は自分の心のありように気付いた。そのありようのつまらなさを思い知った。ひたすら応援しよう。どのような凡ミスがあろうと、大敗していようと、精一杯闘っている、きっと何かが起きる、彼らを信じよう、それが応援だと思った。それから幸せな10日間だった。
翻って、ジャズの応援とはなんだろう。中央から来たビッグネームの演奏は鑑賞して、その美技を堪能し賞賛し感動に酔いしれよう。一方で音楽仲間や知り合いが演奏をするのを聴きに行く。それが彼の晴舞台なら、僕はひたすら応援をしよう。はらはらもするだろう、シクジリにも気付くだろう、だけどそんなことはどうでもいい。応援しよう。友の演奏は鑑賞の楽しみのみならず、応援するものだけが得ることが出来る、爆発する喜びがある。僕はまたひとつ、ジャズをする幸せに気付いたかもしれない。
Smiley(^-^)Tama 2002年6月19日記
essay 大衆芸能(音楽)の支援・保護について
近世日本で考えれば、日本の大衆音楽の原点は農耕の休暇、秋祭りや正月に農民(即ちほぼ全国民)が息災を祈願し酒を飲み踊った祭囃子だろう。それは現在邦楽と呼ばれる音楽ではない。邦楽は貴族や権力者が教養として芸術化・国技化したものだ。農民が憩いに能を舞ったとは寡聞にして知らない。史書に残る芸能(文化)は元来大衆から自然発生したものではなく、支配階級が教養として輸入した芸を土着化したものが多い。
農民が盆に囃し踊っていたことは史書が証している。一般的に祭囃子は楽譜はなく、先祖の誰か(その一族の音楽的秀才)が創った曲やリズムを、農耕の合間や作業中の楽しみにして代々伝承したのだと思う。巧拙は参加の可否を左右せず、全員参加容認が原則だ。そのためにはメロディーやリズムは修得困難なものであってはならず、単純素朴が大切だ。アマチュアニズムの原点だ。一方で職業音楽家も歴史の当初から存在する。余剰生産がなければ、いかに才があれども生産に携わらず音楽だけを終日なすことは許されない。大衆芸能の職業化は、大衆の中から才があり生産活動に馴染まない人々が出生地を離れて集合し、広い地域の祭りを回遊することによって糧を得たと説明できる。民衆音楽の職業音楽人の発生の記録は少ないが、時代の余剰生産性の盛衰に翻弄されただろう。都市の成立と発展が芸能の職業化を促進したことは自明だ。
盆踊りはアマチュアニズムの原点と思う。お囃子はいまでも現地の若者が代々引き継ぐのが原則になっている。テレビなどで小さな田舎の伝承芸が放映されるが、素朴でむしろ稚拙であるほうが私の心を打つ。誰もが参加できる芸の証左だからだ。ときに農耕の合間では到底修得できないと思われる高い音楽性や技術を必要とする地方の伝統芸を見聞きする。それらが地域の伝統芸能として保護されているが、それが本当に民衆伝統芸能なのかどうかは疑問だ。いつかの時点で、参加する音楽(芸能)から見る芸能への転換がなされたと思えてならない。修得するのが困難な芸を「伝承が困難になったから保護する」という考えは理解できないわけではないが、必然でもないと思う。誰にでも出来て、将来再び大衆芸能として復活する見込みが高いものを大切にするのがよいと思っている。
Smiley(^-^)Tama 2002年8月26日記
essay モナリザの首飾
阪神の快進撃とともに野球観戦することが多くなった。合間のコマーシャルで「懐かしの歌謡1960〜1980」が繰り返し放映されるので衝動買いしてしまった。倍賞智恵子の「下町の太陽」を聴いている。僕が小学校5年生で初めて買ったドーナッツ盤だ。心に染みる。涙が出そうだ。ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」に替わった。夢中になった大好きな曲だ。”裸で恋をしよ〜お”。純情無垢だった中学生の僕は「うわ〜!エッチ〜い!」とモダエていた。「夢は夜ひらく」を聴いたら、クラブに行きたくなった。5枚組で1万6千円、買って良かった。僕はジャズ・ファンなのだろうか?。
オールスター戦は「原監督率いる阪神タイガース」になった。きっと「巨人がシーズン中に選手を阪神と総入れ替えした」と錯覚するだろう。「強いだろうか?。弱いだろうか?」。「原監督に勝ち運が乗り移るだろうか?。阪神タイガースに負け癖が付くだろうか?」。見たいよ〜な、見たくないよ〜な(-。-;)。伊藤ゆかりの「小指の思い出」に替った。次の曲は高1のときにバンドで演奏していた、タイガースの「モナリザの首飾り」だ。
Smiley(^-^)Tama 2003年7月5日記
essay ジャズの歌唱技法への個人的願望
ジャズの唱法の基本について論議になった。ディベートにすると、
1)オペラはホールの後席の客に歌いかける
2)現在の若い歌手はマイクのコーン(振動膜)に歌いかける
これが提示で、「ジャズはどこに(どの距離に)歌いかけるのか?」が論点だ。
いろいろなケースがあるので、「バラッドのささやき」を主題にする。
私は「”ささやき”でもジャズの場合は向かい合っている人の距離に届く歌唱法」と主張した。
対論は「ジャズの”ささやき”は耳元の声そのものだ」と主張する。
私の主張は「ジャズはアコースチック(非電気音楽)で、聴き手も演奏かも輪を作って一緒にするのが原点だ。耳元でささやく音量では、向かい合う人には聞こえない。ジャズの歌唱法はマイク歌唱法ではなく、向かい合う人に届くように歌う歌唱技法である」を根拠とする。
対論は「ジャズの表現はありのままであるべきだ。対面の人に聞こえる”つぶやきは作為の歌唱法”である」。さて、どうなのだろうか?。
実は私はボーカルが入ると、必ずマイク(電気装置)がジャズに持ち込まれるが「ジャズボーカルはマイク音楽なのだろうか?・・・出来ればそうであっては欲しくはない」という個人的な希望を強く持っている。私は”ジャズボーカルはささやきの表現はマイクがなければ対面のひとにも聞こえない(真に)耳元で発する音量での歌唱法”でなく、実は”向かい合う人にも聞こえる音量でささやき表現する歌唱技法”であって欲しいと願っている。
Smiley(^-^)Tama 2003年8月26日記
essay なにはともあれ破顔一笑
演奏が終わったら「なにはともあれ破顔一笑」をモットーにしていたらSmiley Tamaの愛称をもらった。このHPの書き出しだ。ジャズピアノをはじめた当初は、演奏が終わると腰を屈めてヘコヘコしながら退出し「今日もダメだった」と頭をかいた。ベースが言った。「今日の演奏は”いまどこ”もなく、貴男なりによかった。いつもいつも”今日もダメだった”では、一緒に演奏している私達が情けない。演奏者が演奏を楽しんでいなければ、共演者も聴衆も一緒に楽しめない」。
衝撃的な忠告だった。僕が間違っていた。共に演奏をするからには”僕は楽しんでいなければいけない”。それが共演者に対しても聴衆に対しても、演奏者がなすべき最低限の礼節だ。そして僕にとって”演奏することは間違いなく楽しい”のだ。
それから、演奏が終われば「なにはともあれ破顔一笑」をモットーにした。実はなかなかに難しかった。大ミスをしたときでも破顔一笑なのだ。照れ笑いではいけない。エヘラエヘラの誤魔化し笑いもいけない。心から楽しい笑いだ。ひどい演奏の後ではなかなかに難しいし、不相応にもなる。そんなときは感謝の心を込めた笑みが良い。ニヤニヤ笑いはいけないが、はにかみ笑いも良い。なにより”自分なりにそれなり”に演奏できたときは、満面の笑みで終わろう。そう心がけていたらいつの間にか「Tamaさんはいつも楽しそうにピアノを弾いていますね」と言われるようになった。気分と裏腹のときもあるのだけれど、「ありがとう」とお返事をしている。下手な演奏自体はどんな態度でしても解消できない。下手はいつも下手なのだ。「聴き手とも共演者とも一緒の場にいて演奏が出来たこと」を喜びとして感謝の笑顔を忘れない。それがアマチュア・ミュージシャンのあり方かと思っている。
Smiley(^-^)Tama 2004年1月5日記
essay ジャズストリートを開催して
 私が「松山でジャズストリートを開催したい」と思い立ったのは、1999年しまなみ海道の開通記念イベントとして今治でジャズ祭が開催されることになったのが”きっかけ”でした。愛媛県庁が主導するイベントだったので、「今治と同時に松山でもジャズのイベントを開催して、しまなみ街道開通を盛り上げましょう」と県庁の担当官に持ちかけたのです。この県行政頼みの思い付きは、担当官の誠意ある対応にも関わらず「しまなみ海道開通記念事業は今治地区の地域振興事業である」との位置付けが障害となって頓挫しました。残念な気持ちを引きずりながら、このときから音楽や文化に対する国や県の助成や補助を調べ始めました。そして2001年度から文化活動活性化支援事業の助成金制度が発動するのを知りました。2001年9月、県下90名のアマチュア・ジャズミュージシャンを抱える「えひめジャズネットワーク」が発足し、松山に「かちまちジャズ倶楽部25名」と「モンク・ミュージックジャム10名」の2つの団体が結成されました。2002年7月、提出していた松山ジャズストリート(名称はおいでや!ジャズストリートに変更)の企画立案に対して、愛媛県文化協会から文化活動活性化支援事業の助成が出ることが決まり、前述の2団体の全面的な協力を得て、2003年3月1日に「おいでや!ジャズストリート2003」を開催しました。以後毎年1回、6〜8店舗に15〜20バンドが出演する、総出演ミュージシャン80人程度のイベントとして続けています。
 私個人のジャズストリート元年は1996年夏でした。新居浜ジャズビレッジと言うジャズストリート形式のイベントに参加させてもらったのです。それまでも音楽教室の発表会には出ていましたし、職域団体の家族の会や忘年会で演奏させてもらっていました。でも、ジャズストリートへの出演はひと味ふた味違った緊張感と喜びがありました。聴き手のお客さんは不特定多数の見知らぬ人たちです。自分の意志でお金を払ってチケットを買ってジャズを聴きに来た(たぶんジャズ好きの)人たちです。ジャズピアノを弾きたい一心でピアノを習い始め、読めなかった楽譜を読み、訳の分らないジャズ理論書を濫読し、「いつの日かジャズを弾きたい」と願って試行錯誤・練習しつつも、「松山のどこにもアマチュアのジャズ・バンドはないし、どこにどんなアマチュア・ジャズメンがいるのかも分からない。いったい、いつどこでジャズピアノを弾くことが出来るだろう」。そんな暗澹とした最初の5年間を過ごし、幸いにも6年目にバンドへの練習参加を許される好運を得て、毎週2曲の練習を4年間続けた後のジャズストリート初出演でした。店の前に出来た人溜まりをかき分けるようにして僕は店に入っていきました。ピアノの前に座って椅子の高さを調整します。お客さんたちの視線を背中に感じます。その視線が痛いのです。「どんなジャズを弾くのだろう」「松山から来たらしいけど上手なのだろうか」。そんな声が聞こえてくるような気がします。「僕は下手くそです!」「期待しないで下さい!」。そう叫んで逃げ出したかったです。そのときの圧倒的な緊張感と、その後に我が胸に去来した高揚感との双方が、一時的にせよミュージシャンとして存在した自分への確信として強く心の奥底に残りました。それが私のジャズストリートの原点でした。
 ところでジャズストリートって何でしょう?。1930年代半ば頃、ニューヨークの52丁目界隈にジャズの生演奏をする店がたくさん寄り集まって営業していました。このストリートに出向いて一晩に何軒も梯子しながらジャズを聴いて回るのが「ジャズ通」とされたらしいのです。それが転じて、「近接するあちこちの店や場所で同時に演奏をして、お客さんがそれを聴いて回る方式」をジャズ・ストリート方式と呼ぶようになったらしいのです。コンボ系ジャズ(3〜6人の小さな編成のバンド)は、「大きなホールでのコンサート形式よりも居酒屋的な小さな店のほうが演奏に適している」ということも、ジャズ・ストリート形式がジャズを中心に音楽シーンで普及してきた一因だと考えられます。
 イベントには色々な目的があります。”おいでや!ジャズストリート”は文化振興を目的とする超零細の非営利県助成の民間イベントです。日本全国には(私が知っているだけでも)40を超えるジャズストリートが開催されています。実数は100を超えると思います。伝統のある神戸ジャズストリート、行政と商工会の支援を受けて商業的にも規模が大きい高槻ジャズストリート、音楽技術の高さを誇る横浜プロムナード、(中止になりましたが)高いレベルの新人養成に力をいれた吉祥寺ジャズストリートなど、全国に名高いジャズストリートがたくさんあります。四国では徳島ジャズストリートが発足20年の老舗で、20軒を越える店に40を超える数のバンドが出演する四国最大のジャズストリートです。徳島在住のドラマー大田純一郎さんの個人的な情熱で牽引してこられましたが、2003年に太田さんが70歳を迎えられたのを契機にして、参加する店主が主体となって運営する実行委員会形態になりました。
 ”おいでや!ジャズストリート”実行委員会は企画段階で何度も開催理念について話し合いました。その結果、”おいでや!ジャズストリート”は、松山のジャズ・ミュージシャンが主体となって運営して、ジャズ音楽の普及に努めることを目的とするけれども、同時になによりも「松山のジャズ・ミュージシャンがよりいっそう楽しく音楽活動ができるようになるイベントを開催する委員会」と定義付けをしました。だから必ずしもイベントの内容はジャズストリートでなくても良いのです。松山・愛媛のジャズミュージシャンが望むならば、色々な形式でのジャズイベントを開催しようと思っています。実際2004年は新居浜・西条・今治・松山の店を「地元バンドとお出かけバンド」の組み合わせで順次ジョイント・ライブをするイベントを、愛媛ジャズライブ・リレーと名付けて開催しました。
 ジャズストリートを開催して嬉しいのはミュージシャン友達がどんどん増えることです。プログラムを編成したり演奏会場を用意するためには、実行委員会は演奏者の名前を知っているだけでは不足で、各人の音楽性や人柄も知っておくことが大切です。加えて愛媛県だけではなく、徳島や高知などジャズストリートを他県の尋ねて、それぞれのジャズストリートの方式の特徴を見聞きし、出演しているバンドの動向を知るのはとても楽しいことです。徳島・高知・松山の3つのジャズストリートは既に交流があるので、来年には四国ジャズストリート・ネットワーク(仮称)を立ち上げて、今後いっそう緊密な連絡を取り合おうと計らっています。
 私がジャズピアノを習い始めた19年前の松山には、アマチュア・ジャズミュージシャンの系統だった発表の場はありませんでした。統一的な演奏の場がないから、ミュージシャン同士の連絡もなければ知り合うことも出来ませんでした。アマチュア・ミュージシャンはそれぞれが孤立して練習をしていました。「ジャズを演奏したい」と思って松山でジャズの練習を始めたひとたちの目標の場を創って待ちたい。いつの日かそれが私の望みになりました。だから、いささかなの我が儘ですが、”おいでや!ジャズストリート”は基本的に「松山のジャズミュージシャンのためのイベント」なのです。だけど音楽会はお客さんにお越し頂かなければ成立しません。世界や日本で名高いミュージシャンのコンサートならばお客さんは鑑賞を目的にして来場されるでしょう。自分の子供の音楽発表会ならば応援に行くでしょう。おいでや!ジャズストリートはその中間の意味合いです。音楽を演っている松山仲間の演奏を鑑賞すると同時に、応援するを楽しみも味わって頂きたいのです。最近サッカーや野球でホームチームを応援する楽しさが支持されるようになりました。おいでや!ジャズストリートも「おらが住む町のおらがジャズ」なのです。「おらが住む町のおらがジャズ」のジャズストリート、いましばらく続けてみたいと思っています。応援をよろしくお願いします。
Smiley(^-^)Tama 2006年10月26日記


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