Amatua おじさん Jazz Pianist
Smiley Tama
松山ジャズ事情 酔聞記
酒を飲むのが好きです。ジャズの流れる店でほろ酔いながら杯を重ねる時間が大好きです。所構わずジャズピアノを習っていることを自己紹介の替わりにして、休憩中のミュージシャンに昔の松山のジャズシーンの思い出話をおねだりしました。そんなお話を集めました。現場をぜんぜん知らない者が書いたとてもいい加減な伝聞記です。眉にたっぷり唾つけてお読みください。ことの真否に責任をもちません。2000年以降は私の主観そのものです。
Smiley(^-^)Tama
目次
1960年代のキャバレー 1960年代のジャズミュージシャン 節目の1970年
兄貴分T氏 トッポロージと六本木 クラブ・ピアノ
ロフトクラブ ムーングローとキーストーン・バー 大学生のジャズ
10 1980年代のアマチュア 11 プロサックス奏者故K氏 12 ジャズ・イン・グレッチ
13 現在のアマチュア活動 14 苦戦するジャズ・コンサート 15 ライブ状況
16 ジャズストリート 17 ジャズ・フォー創始者故K.I氏 18 社会人ビッグバンド
19 夏のジャズ祭り 20 ジャム・セッションとかちまちジャズ倶楽部  21 ジャズ切磋琢磨とえひめジャズネットワーク
22 2001年新しいジャズシーンの登場 23 文化行政と松山・愛媛のジャズ 24 松山ロック界の系譜
25 松山のロック界とジャズ界の融合 26 松山の新世代のジャズ・ミュージシャン 27 松山の2番目のビッグバンド誕生
28 愛媛県のジャズストリートおよびジャズタウンなど 29 四国のジャズストリートなど 30 えひめジャズネットワークの現状
31 松山のジャズ・ライブハウス2008 32 ワイズ・カフェの開店と松山のジャムセッション事情 33 ジャズ・ライブハウスの2021年現在
34 ジャム・セッションの2021年現在 35 えひめジャズネットワークの2021年現状 36 ジャズ・イン・グレッチのT氏のご逝去とオーナー交替
37 新型コロナ禍下の松山ジャズ・イベント2021年と22年の状況 38 (南海放送)オールスタージャズ・フェスティバル 2014年スタート〜現在(In 八幡浜) 39 新型コロナ後の松山ジャズ・ライブハウスの状況
40 コロナ禍過ぎし2023年の愛媛のジャズ・イベント


1960年代のキャバレー 2001年4月22日記
1960年初頭はキャバレーのビッグバンドが盛んだったらしい。酒と女とジャズとダンスの華やかな時代ですね。十代だった私は酔った父から「バンドの演奏で、ねーちゃんと踊った」って聞かされました。「女がおばちゃんばっかりだ」とわがまま言ってましたね。当時は銀馬車とパレスという2つのキャバレーがあったのですが、銀馬車は早々に店を閉めてしまいました。パレスは1981年まで店があったし、規模は縮小しながらでもバンド演奏は最後まで続けていて、松山のジャズミュージシャンを育てる貴重な場所だったようです。現在松山で活躍しているジャズミュージシャンは、1970年に20歳前後で、学生だったりで松山にいて、パレスで初めて仕事をして、その後松山に在住した、という経歴の人が多いのです。多いと言ってもプロ・アマ含めて7人くらいかな?。松山のジャズ人口はとっても少ないから、7人でも大勢力に思えるのです。その人達がいま50歳前後で活躍しておられます。中国地方や中央から来られたミュージシャンが「実は昔パレスで仕事をしていたことがあって〜」とかで、同窓会的な雰囲気を醸し出しているシーンを時折お見受けします。
1960年代のジャズミュージシャン 2001年4月22日記
1960年代のパレスのミュージシャンは中央からの派遣がほとんどで、松山在住のミュージシャンは皆無に近かったらしいのです。また大学などにもジャズ研が創立されていなくて、若い人が育つ基盤がなかったと推察されます。1960年代初めにパレスで働かれていた方々を3名存じ上げています。中央で演奏技術を得たミュージシャン(即ち当時既に30歳代)が松山に仕事のため来られて、なんらかの理由で定住されたという成り行きのようです。だから60年代にパレスで演奏されていた方々は70歳前後なのです。松山のご出身でないのも特徴です。現役活動中の方もおられますが、隠居されたり療養中だったりのようです。
節目の1970年 2001年4月22日記
私は1970年が節目の年だったのではないかと推察しています。当時を独断的に分析してみますと、その頃パレスが経費節約のためにそれまで中央から呼んでいたバンドマンの一部を松山の現地雇用に切り替えようと試みたらしい(キャバレーが斜陽になった時期ですよね)ことと、その数年前に松山の2つの大学にジャズ研究会が発足していたこと、に気付きます。ぴったりと需給関係が成立したのではないかと思えるのです。この時期に20歳前後でパレスで仕事を始めた松山在住のジャズミュージシャン(現アマも含む)は7人おられます。その方々はジャズをやり始めてから2年〜3年程度という短い期間で、臨時のミュージシャン仕事を得ていたようです。演奏活動を始めるにはたいへんな好運ですよね。初仕事のときに「アドリブとはなんぞやと聞いた」とか、「なんでも3コードで弾いた」とか当時の思い出話を聞きます。この時期に音楽活動を始めた人達が、後述のライブハウス全盛期に仕事を得て、そのままプロになったというプロセスが伺われるのです。実は僕も彼らと同世代で、関西で学生生活をしていました。学生バンドでベンチャーズやビートルズをやっていました。現在はジャズを生業にしている人も「当時はロック畑だった」なんて懐かしいお話も伺います。松山に音楽を仕事をする若者達が突如として大挙して現れた。そんな状況が彷彿とします。この時期の方々が、プロ・アマを問わずこの20年間の松山のジャズ界をリードして来たと私は思っています。少し不思議なのは、パレスはその後10年以上続いたのですが、松山のミュージシャン関係者はわずか5年の年齢差の中に凝縮されている感じなのです。現在45歳以下の人からはパレスで働いた話を聞きません。その理由は分かりません。バンド仲間だった人達は「なんのかんの」と言い合いながらも、ずっと仲間であり続けているように思えます。
兄貴分堤宏文氏 2001年4月22日記
当時松山在住の若者の中で年長者扱い(兄貴分)であったのがドラマーrの堤宏文氏でしょうか。彼は30歳くらいでパレスのバンドマスターになり、若者のステージ調整と都会から出張してきたバンドマンとの折り合いを担ったのかと思われます。彼は現在、イベントの企画立案したり海外ミュージシャンの松山公演をプロデュースしたりして、消えてしまいそうな松山のジャズの火を絶やさぬよう懸命に頑張られています。
トッポロージと六本木 2001年4月22日記
1970年代はクラブやスナックでの定例ライブ(ハコ)もたくさんあったようです。デュオやトリオ、それ以上大きい編成でも仕事があったらしいのです。「ギャラで財布がいつも厚かった」という古き良き時代の話を聞きます。僕は帰省したとき数度父にクラブに連れられました。そこで僕と同世代の彼らが演奏をしていたことになります。父同伴でクラブに座っているヒヨッコ学生とステージで演奏している彼らとの対比を思い巡らします。
彼らの話に出てくる印象的な店が2つあります。ひとつはトッポロージで、現在もピアノ・バーとして続いています。パレスがビッグバンドとしての経験の場であったとすれば、トッポロージは「コンボ系のライブハウスとして重要な場所だったのかな」と推察しているのですが、夜遅くまでセッションなども行なわれていたらしいのです。もうひとつは六本木というピザハウスで、こちらも経営者は替わりましたが現存します。演奏の場ではなかったにもかかわらず、ミュージシャンの行きつけのバーとして思い出にしばしば出てきます。亡くなったオーナーの人徳と都会性にミュージシャンが魅了されていたものと推察しています(ジープを乗り回すマスターはカッコよかったです)。オーナーの追悼演奏会にはたくさんのミュージシャンが参加しました。当時、彼との縁でやってきたミュージシャンも数名おられたようで、そのうちのひとり、ドラマーの櫻井氏のドラミングはお洒落で繊細で松山の第一人者です。キーストーンバーのオーナーとして松山の本格派ジャズシーンを提供されています。
クラブ・ピアノ 2001年4月22日記
1980年以降、松山をホームにして育ったプロミュージシャンはピアニストの2〜3名だけだと思います。管楽器は20年間一人も輩出しませんでした。1980年以降の松山では、ピアノソロ、デュオ、せいぜいトリオまでの仕事しかなかったと思われます。
パレスにはビッグバンドとの交代でコンボがありました。コンボで働いたピアニストは多かったようです。1980年代の松山では、3〜4軒あったクラブ(松山では高級)がジャズを生演奏で聴ける数少ない場所でした。この人達がクラブでのソロピアノ演奏を永く担いました。彼らは現在60歳代です。若造(20代後半)の私は時折訪ねたクラブで彼らのピアノに聞き惚れていました。女の子とのお喋りよりピアノを聴きにいっているって感じでした。本当です。当時からジャズピアノに憧れていたのですね。彼らの演奏技術は、大学を卒業したばかりの若い男女の追随を許さないものでした。ですが30年間も新陳代謝しないというのも異常だと私は思うのです。松山からジャズの教育システムが失われていたと感じます。生演奏をしているクラブは1990年に入り徐々に減り、昨年(2000年)遂になくなりました。
ロフトクラブ 2001年4月22日記
1980年に入り松山にショットバーが大挙して出店しました。その中にライブを提供する店がいくつかあり、その創業的存在だったのがロフトクラブです。優秀なバーテンダーをたくさん輩出したと聞いています。ロフトクラブは1981年開業で、1970年のパレス全盛期に遅れて生まれたピアニストに機会を提供しました。ショットバーも乱立と思える状況下で、ライブを継続した店はほとんどありませんでした。
ムーングローとキーストーン・バー 2001年4月22日記
1986年にムーングローが開業しました。オーナーはジャズピアニストの伊賀上氏。前述の1970年初めパレスデビュー組で開業当時は30代半ばでした。オーナーがミュージシャンであることから、ジャズを聴かせる店という意味付けが明瞭でした。私が松山で初めてコンボ系のジャズを聴いた場所であり、ジャズピアノを習うことを思い立ったのもこの店でした。
1991年キーストーンバーが開店しました。オーナーは先述のドラマーrの櫻井氏です。地道にジャズの王道をゆく店です。新人のピアニストを育てました。現在まで松山でプロ・ジャズ・ミュージシャンのコンボ演奏を提供してるのはこの2店だけです。(松山のミュージシャンとの交流を禁じているZホテルのラウンジを除く)。
大学生のジャズ 2001年4月22日記
松山には愛媛大学と松山大学(元松山商科大学)の2校があります。大学のジャズ同好会の創設は語る人によって様々でどうもよく分かりません。
松山商科大学でのジャズ同好会は1965年頃らしいです。創設に関わった方の話では、商科大学には従来から軽音楽部があって、軽音楽部内の正式団体は吹奏楽部とマンドリン部だったらしいのです。その吹奏楽部に間借りする感じでロック同好会的な集まりができて、さらにそれが分派してジャズ同好会を創った、と伺いました。会独自の記録らしいものはなく、大学に届けを出したのかどうかも不明確で、現在の在学生に聞いても正式なところは分かりませんでした。そんなこんなで、ま、1965年頃が創設なのでしょうか?。
愛媛大学にはビッグバンドがあって正式な団体のようです。コンボ系のグループはビッグバンドに付帯した存在と推察しています。愛媛大には特別音楽科があります。音楽の教師養成が趣旨ですが、愛媛県の音楽家教育機関として重要な役割を担ってきました。クラシック教養主義が原則なので、一般学生の音楽活動とは一線を画していたようですが、ときおり学校の方針に従わない不良学生が混じっていました。その道が松山でプロジャズミュージシャンが育つ過程のひとつになったようです。
1980年代のアマチュア 2001年4月22日記
どちらの大学もビッグバンド(吹奏楽部)が正統の団体のようです。コンボ系は入部した学生の技量と熱意によって盛衰が激しかったようです。また、1980年代はフュージョン系が中心だったようです。1990年初めは両大学ともに活動がとても低調になって、ひとつの大学ではコンボを編成できない状況に陥ったようです。その打開策として、2つの大学のジャズ研の交流を始めたのがキッカケで元気になったと聞いています。「災いをもって福となす」の好例でしょうか?。
地元の大学を卒業してそのまま松山でジャズを続けるひとがたいへんに少ないと感じています。松山には「クラッシュ」というビッグバンドがあります。そちらにみなさん参加されているのでしょうか。ビッグバンドとコンボ系の違い、フュージョンとジャズのジャンル違い、などの音楽的理由や、松山以外での就職が多い、アマチュアの受入れ体制が不足しているなどの社会的要因などが考えられますが、ともあれ1980年代に地元大学からの新人供給がほとんどなかったのは確かです。私は1987年にピアノを習い始めました。その頃私が知り合った30代の純粋のアマチュアはSaxが2名、Drが2名、Pfが1名でした。彼らはバンドを組んでいました。中年に限って言えば現在も状況はほとんど変わっていません。僕はさみし〜〜。ほんとにさみしいよ〜〜。よく似た街なのに、徳島市ではジャズが盛んな様子を伺うにつけ、その差はどこにあるのか知りたいと思います。
プロサックス奏者故倉田氏 2001年4月22日記
松山唯一のプロサックス奏者だったM.倉田氏が2001年2月に亡くなりました。残念です。優しい方で僕の記念ライブでデュオをご一緒して下さいました。そのときのビデオは僕の勲章です。M.倉田.さんは愛媛県出身で大阪で修行してパレスに帰ってこられました。パレスデビュー組より3〜4歳年長でちょっとだけ兄貴分の感じでした。Kさんが亡くなって愛媛県下にはプロのサックス奏者はいなくなりました(最近ハリキっている若い女の子がいます。ガンバれ!)。加えてトランペットもクラリネットもプロは松山にいません。要するに松山にはプロのフロント楽器奏者はひとりもいないのです。
ジャズ・イン・グレッ 2001年4月22日記
1992年ジャズ・イン・グレッチが開店しました。マスターは故高橋修氏ドラマー(2022年ご逝去)です。前述のパレスデビュー組のひとりで、今はアマチュアとして活動されています。マスターのニックネームは寮長です。この店はアマチュア中心でライブをしています。私がどうにかピアノを弾けるようなったのはこの店のお陰です。僕だけでなくこの店で育ててもらった若いアマチュアはたくさんいます。この1年間、演奏日が多くなってほぼ毎日誰かが演っています。ジャズ研の学生も寄るようになりました。私達アマチュアミュージシャンにはたいへん有り難い店なのですが、悩みは来店するのはジャズを演る人ばかりで、聴きに来る人が少ないことです(ま〜当然と言えばトーゼンか)。半年前からジャムセッションが始まりました。20名程度が集まっています。
現在のアマチュア活動 2001年4月22日記
現在はグレッチを拠点にしているアマチュア・ジャズ・ミュージシャンは多いです。出入りする人数は30名程度です。層は薄いですが、60年代パレス組のサックス(73歳)と80年代クラブ組のピアノ(70歳)の両ご隠居を中心にしたバンド、若い社会人(20歳代後半)、学生中心バンド、パレス70年組などよく見ればバラエティー富んでいます。ジャムセッションが始まって一段とこんがらがっています。
2つの大学のジャズ部の活動もこの2〜3年で盛んになりました。愛媛大のビッグバンドは昨年初めて全国大会に参加したと聞きました。コンボ系は大学の境界を越えて編成したりして、4〜5バンドあるようです。関西から帰ってきたTpの影響で新主流ジャズを目指しているようです。
昨年(2000年)愛媛県下のアマチュアが集まってお互いに演奏を聴き合うライブ(ジャズ切磋琢磨)が開かれました。ビッグバンド2組を含む9バンド53名が集いました。
少しづつですがアマチュアのジャズは再活性化しているように思えます。若いアマチュアが育てばプロの活性化にも繋がるかもしれません。楽しみにしています。
苦戦するジャズ・コンサート 2001年4月22日記
松山でのジャズ・コンサートは苦戦しています。90年初めジャズの比較的大きなコンサートはDrのTさんが中心になってプロモートしていましたが、赤字続きだったようです。ヘレン・メリルの公演でも500人は入りません。日本人演奏者のライブは100枚売るのが苦労です。松山ではチケットは5000円より高いと売りにくいです。3000円が売れセンかな?。3000円で100枚、売上30万円だと東京からの交通費が一人往復で3万円なので宿泊入れてカルテットで16万円、開場費、宣伝費が10万円で残りは4万円です。これではギャラが出ません。松山でジャズのチケットを100枚以上売る計画はたいてい成就しません。そんなわけいろいろやりくりして「4000円〜5000円で100人、50人入りの会場で2セット」ってのが定番かな。
ライブ状況 2001年4月22日記
200人以上のコンサート形式は別にして、先述の100人ライブはムーングロー、グレッチ、キーストーンなどの既設のライブハウスでの開催がほとんどです。最近ではモンクという店も多いです。ライブハウスが主催する場合もあるし企画持ち込みもあります。ライブハウスの企画の場合は大抵常連客ばかりです。持ち込み企画のときは、時々すごくお客が少なくって寂しいときがあります。アマチュアが企画したときは、普段ジャズシーンではご一緒したことがない人で店が一杯になる傾向があります。静かに固まっているお客さんが多くなります。
昨年(2000年)僕もジャズ・コンサートをプロモートしました。初めての経験でした。とてもギャラを安くしてもらって、会場費もタダにしてもらって、素人プロモーター7人組をつくって実行しました。120枚売れて会場もちょうど一杯になりました。嬉しかったです。赤字覚悟(というより初めから持ち出しのつもりで)とても贅沢な打ち上げをしたのですが、チャラになりました。大成功でした。でも、もし交通費や正当なギャラや会場費を払ったら、やっぱり赤字です。
コンサートホールでのジャズ公演はこの3〜4年ほとんどありません。不景気は松山のジャズシーンを直撃しています。ですが天童さんという演歌歌手の公演には2000人会場が満杯になったとのことです。演歌は強いです。
ジャズ・ストリート 2001年5月2日記
2年前から松山でもジャズストリートが始まりました。Sugar Villageと言います。歓楽街のSugar通りに面した6〜7店舗が共催しています。年1回10月頃の開催です。ジャズだけではなくってフォーク系、ロック系をする店もあります。ミュージシャンは店を移らないで同じ店で2〜3セット演奏します。お客さんが回る方式です。店は表、裏の2バンドを用意して、表はプロ(松山以外のミュージシャンを招聘)、裏は地元のアマチュアという感じでした。「それぞれの店がミュージシャンの選択にも責任をもつ」という方針のようです。第2回はどの店も客が入りきれない程の盛況でした。僕は昨年このジャズストリートにトリオで演らせて頂けました。独立したバンドでの出演は初めてでした。嬉しかった。不幸なことに昨年火事で出演した店が焼失しました。今年も開催され定着したようです。
このほか愛媛県でアマチュアも出演できるジャズストリート(タウン)は新居浜と今治で開かれています。新居浜は年1回5月頃開催で今年は第7回です。サンジェルマンというお店のマスターH氏がまとめ役のようです。今治は1999年に大橋が開通した記念イベント(今治ジャズタウン)を契機にスイングキッスのバンマスH氏が音頭を執って始まりました。昨年はプロのコンサートだけでアマチュア参加はなかったけど今年(2001年)は開かれるようです。
ジャズ・フォー創始者故池田和夫氏 2001年7月2日記
池田和夫さんが6月15日(2001年)に亡くなりました。58歳でした。池田和夫.さんは松山商科大学のコンボ系ジャズ同好会(ジャズ・フォー)の初代マネージャーです。ギターとボーカルです。ジャズとカントリ&ウェスタンをこよなく愛され、ライブハウス「カサノバ亭」を開店されてロックやカントリ&ウェスタンのライブ演奏を松山に提供されました。最近10年間は音楽活動を休止されていましたが、アマチュア音楽活動の再開を思い立たれて矢先のことでした。残念です。池田さんは松山バーテンダー協会の創始者のひとりでもあり、松山の文化をリードしてきた方でした。彼が大学に入学したのが昭和35年頃です。松山の文化がアメリカ化する兆しを具現化した人でした。松山の「それ以前」を知る方をまた失いました。
社会人ビッグバンド 2001年7月9日記
松山の社会人ビッグバンドはクラッシュといいます。松山南高等学校のOBバンドが母体のようです。今は参加自由です。クラッシュは新しいスタートに立っているように思われます。2001年は20回目の記念定期演奏会が催されます。
愛媛県には、ほかに今治にスイング・キッスという社会人バンドがあります。1999年しまなみ海道大橋の開通を記念しての今治ジャズタウンが愛媛県主催で開催されました。これを契機に今治市主宰の今治ジャズタウンが2000年からスタートしました。その仕掛人(委員長)がスイング・キッスのバンマスと聞いています。2000年は多くのプロミュージシャンによるステージとビッグバンドThe Kingの素晴らしい公演がありました。2001年も開催されます。
夏のジャズ祭り 2001年7月9日記
94年頃までは松山でも夏のジャズ祭りが開かれていましたが、最近はなくなってしまいました。愛媛県内の夏のジャズ祭りは、jazz in 南レクと今治ジャズタウンです。今治ジャズタウンは上段で書きました。jazz in 南レクも頑張っています。愛媛県は伊予の国と言います。愛媛を3分して東予、中予、南予と呼びます。南レクは南予レクレーションの略語です。愛媛県が南予をレクレーション・観光で地域振興しようと図ってつくった造語です。愛媛の南の端っこにある城辺町で毎年お盆に開催されます。大森山キャンプ場という山の中の公園にある、すり鉢型のステージでの星空コンサートです。素敵です。継続がアヤウイと聞いていました。2000年はなかったのですが2001年は開催されるようです。小さな町の青年団の頑張りです。松山はどうなっとんじゃろか(`_´)。
ジャム・セッションとかちまちジャズ倶楽部 2001年8月10日記
グレッチでは5〜6バンド・総勢25〜30名が、曜日替わりで練習をしています。そのメンバーが中心になって、2000年12月から月1回ジャムセッションが始まりました。愛媛では初めての試みと思います。毎回10人〜20人が集まっています。ジャムセッションを契機にして2001年7月に「かちまちジャズ倶楽部」が結成されました。松山のコンボ系のミュージシャン20名の会です。初代会長は高橋修.氏です。「かちまちジャズ倶楽部」結成によりグレッチのジャムセッションは「かちまちジャズ倶楽部定期演奏会グレッチジャムセッション」と名称換えになりました。実行委員長はY.T.氏です。初事業として9月に子規生誕100周年事業のストリートジャズに3バンドが参加する予定です。
ジャズ切磋琢磨とえひめジャズネットワーク 2001年8月10日記
2000年9月に栗田敬子.氏の企画主導でジャズ切磋琢磨というアマチュア中心のジャズコンサートが開かれました。演奏者だけのコンサートです。第1回は県下の2つのビッグバンドと7つのコンボが出演しました。私も出演しましたが、一挙に同好の仲間が増えた感じでした。それから1年間相互の交流が盛んになり、第2回も開かれ一層参加が増えました。定例になりそうです。2001年9月、ビッグバンドのクラッシュ(松山)とスイングキッス(今治)、かちまちジャズ倶楽部(松山)、それに東予ジャズ研究会(東予)が加わって愛媛県下のアマチュア中心のジャズ団体「えひめジャズネットワーク」が発会しました。傘下の会員数75名、会長は栗田敬子.氏です。11月愛媛県主催の愛媛総合文化祭に「坊っちゃんジャズフェスティバル」を企画し参加します。
2001年新しいジャズシーンの登場 2001年12月21日記(2003年5月8日追補)
2000年になってジャズを提供する店がいくつか始まりました。2000年にジャズ・ギャラリーとピラミッド、2001年にモカモカ、そしてモンクです。ピラミッドはクラブです。本格的なジャズではありませんが生演奏を提供しています。モカモカはボーカルとピアノ、ピアノとベース等のデュオ編成で演奏しています。いずれも必ずしも本格的なジャズを目指しての経営方針ではないようですが、ともかくも若いジャズ・ミュージシャンにチャンスを与えています。モンクのオーナーはギターリストです。ニューミュージック系の生演奏では10数年の老舗です。2001年からジャズの演奏日を設定しました。本格的なジャズを目指しているようです。2001年になって、松山に新しいジャズシーンが登場してきました。楽しみです。追補:ピラミッドは2002年末に、モカモカは2005年10月に閉店しました。

文化行政と松山・愛媛のジャズ  2002年9月4日記(2003年4月過去形に訂正)
1999年以前の愛媛・松山のジャズ活動は行政と無縁でした。水軍太鼓・芝能や伊予漫才などが行政支援の祭りを彩っており、ジャズ・特にアマチュアジャズに行政から声がかかることはありませんでした。1999年しまなみ海道開通の記念事業として、愛媛県が今治ジャズタウンを企画したことから急速に文化行政との関わりが深くなりました。今治は県の記念事業を市行政が引き継ぐかたちで、平尾史郎実行委員長の尽力により2000年以降毎年今治ジャズタウンを開催しています。2000年栗田敬子氏が愛媛県文化協会奨励賞を受け、2001年11月えひめジャズネットワーク(K.K.氏会長)が愛媛県主催の愛媛総合文化祭で「坊っちゃんジャズフェスティバル」を主催しました。えひめジャズネットワークは愛媛県文化協会の会員になり、2002年は愛媛県文化振興財団の文化活性活動化支援助成を受けて「坊っちゃんジャズフェスティバル2002」を開催しました。ビッグバンドは2000年から芸術等基盤整備支援事業の助成を受けています。松山のかちまちジャズ倶楽部は松山市文化協会の会員になり、2002年夏の松山祭りに出演しました。文化活性活動化支援助成を受けて2003年3月に松山市で「おいでやJAZZ  STREET 2003」を開催しました。1999年以降文化行政と愛媛・松山のジャズは急接近した印象です。

松山ロック界(&フォーク界)の系譜  2003年4月21日記
松山のロック界は1967年頃幕を開けたらしい。実際松山で中高生がエレキ・ギターを手に入れることが出来るようになったのはベンチャーズ以降です(1962年頃)。高価だったし、校則でエレキ・ギター演奏は禁止され、エレキ・ギターを持っているだけで不良とされました。私と同世代です。私も同時期にエレキベースを親に隠れてこっそり弾いていたのです。学園祭に出演したら、父親は校長室に呼び出されました。禁を犯して熱中した中学生が社会に出たのが1967年頃だったらしいのです。その草分け的存在が2003年4月に亡くなった藤岡泰三氏(ギター)であり、MDQ+で活動するデューク谷本氏(ドラム)等でした。藤岡泰三氏とデューク谷本氏は1952年生まれ、1〜2歳違いの人達が集まってバンドを結成し、1967年頃、ゴーゴー喫茶「銀杏」などで演奏活動を開始しました。今で言うオルディーズ(ポップス)やベンチャーズ・ビートルズでスタートした世代です。3〜4年遅れてローリング・ストーンからディープパープル・サンタナで育った世代が活動を開始し、さらに3〜4年遅れてレッド・チェッペリンやピンク・フロイドを聞いて育ったロッカーが活動を始めました。MDQ+の関家雅司氏や今井パイル氏はこの世代です。いまとなっては「みんな、おじさん」なので、部外者がこの3世代区分を見分けることは不可能です。45歳から52歳になられています。
 1970年代に入ると、草の根的なグループも各高校を中心に現れてきて、活動の場を求めて動いていました。その中心はむしろフォークで、相当数のグループがあったと思われます。その中で出てきたのがスーパースターを集めた児雷也で、U氏のボーカルを中心に先述の関家氏、藤岡.氏、パイル谷本氏と竹内学氏、キーボードの栗田敬子氏等の個性豊かなミュージシャンが集まり、一部メンバーを替えながら現在も活動を継続して松山の音楽シーンをリードしています。栗田氏は愛媛を代表するジャズ・ピアニストのひとりです。ジャズとカントリー&ウエスタンロックを愛した故池田和夫氏、ロック3世代、そして児雷也、ロックとフォークそしてジャズ界交流の原点をここに垣間見ることが出来ます。
その後もロックとフォーク・ミュージシャンは輩出しているはずなのですが、現在の活動は知り得ていません。私がいささか「おじさん」なのでお付き合いが薄いのでしょう。

松山のロック界とジャズ界の融合(モンク・ミュージックジャム)  2003年4月21日記
ロックの草分け的存在だった藤岡泰三氏は1994年ジャズ・パラダイスのメンバーとしてジャズへ参入されました。一方ロックを中心に音楽活動を続けていた第1世代から第3世代のロッカー達も40歳を過ぎました(現在は50も過ぎた)。現在、ロッカーの先輩格として「ライブ店を経営したり」、「音楽マネージャーを務めたり」、「編曲に携わったり」と音楽活動を続けている方々が、2ボーカル(男女)とギターカルテットで構成するバンド、モンク・ドリームカルテット・プラス(MDQ+)を結成されました。「ポップな曲にジャズ心を大切に!」というバンドの意向です。MDQ+のリーダーは「えひめジャズネットワーク」会長の栗田敬子氏です。
ジャズとロックは音楽的にはさほど遠くないと思うのですが、音楽仲間としては意外に融合ません(少なくとも松山はそうでした)。「ジャズとロックの融合」にはフュージョンというジャンルがありますが、松山の場合の「ジャズとロックの融合」フュージョンからではなく、「ジャズ心を大切にするポップ&ロック」という音楽方向性で歩調を合わせることになりました。MDQ+とアカペラ・コーラスグループの祝谷トランスファーの2バンドで、音楽団体「モンク・ミュージックジャム」を結成して2001年えひめ・ジャズネットワークに加盟しました。以降松山のジャズ界とロック界は急速に親密になりました。

松山の新世代のジャズ・ミュージシャン  2008年8月19日記
1970年前後にパレスでジャズを覚え始めた方々(現在55歳〜65歳)と”多少なりともその流れ”をくむ方々とが、永く松山のジャズシーンを支えて来られましたが、2000年頃から20年以上一挙に若返った世代の方々の活躍が明確になってきました。2000年アマチュア・ピアニストのI・M氏を中心とするバンドが吉祥寺ジャズコンテストで受賞しました。彼らのジャズに対する真摯な姿勢とその結果としてのジャズサウンドは、学生や若い人たちには勿論のこと、年配の私たちにも強いインパクトを与えました。メンバーのドラムの佐々木千之氏は2001年頃から2006年まで松山に新しいドラミングを提供しました。ピアニシトのI氏は現在も松山で活動中で、若手ミュージシャンの手本でもあり憧れでもあります。ベースのK氏のジャズ理論は秀逸でした。残念ながら彼らのバンドは2004年以降は活動をしていませんが、彼らのバンドの活動期頃から彼らよりも更に若い(当時20才前後だった)方々たちの間で、新しいジャズ熱が沸き起こってきたのだと思います。それから3〜4年が経ち、2005年プロ宣言したベースのT氏やドラムのK氏など、現在20台半ばのジャズメンが活動を始めました。また流れは違うのですが、10年前からヤマハのキーボード(ピアノ)講師として着々と力をつけて来たH氏や16歳頃からエレキベースを弾いているK氏など、パレス世代とは関わりが薄い世代の方々が松山のジャズシーンを彩るようになってきました。松山ではジャズメンが活動できる場は少く、ジャズで自活することは難しいのですが、彼らは頑張っていると思います。プロまたはプロ的に活動している若手だけではなく、松山でジャズを始める若手の入り口も様々になり、ジャズに関わる間口が広がっているように感じます。彼らの活動の成果はまだ明確な形にはなっていませんが、「松山のジャズはまだまだ元気だ!」と思えるこの頃です。

松山の2番目のビッグバンド誕生  2008年8月19日記
松山には、2006年に結成25周年を迎えた社会人ビッグバンド「クラッシュ・ジャズオーケストラ」があります。クラッシュ・ジャズオーケストラの近年の活躍には目覚しいものがあり、県内の大きなイベントの際には市県などの主催側から、しばしば請われて出演演奏をしており、知名度は大変に高いのです。50歳の元気盛りのリーダーH氏を先頭に大活躍中です。その松山に2006年もうひとつビッグバンドが結成されました。30歳半ばのアマチュア・サックス小林直人氏の情熱で創設されたバンドで「コンテンポラリーなサウンドを創りたい」がモットーです。平均年齢は20歳代後半だろうと思います。若いバンドです。私はビッグバンドに詳しくはないのですが、確かに「彼らが求めているサウンドは聴こえている」と思います。ジャズ人口の少ない松山のことなので、ほかのバンドとの兼任も多くて、「少ないメンバーの編成替え」のようなものと言えますが、プロ・ピアニスト渡部氏が参加されたりすることもあり、このバンドの設立はトピックでした。新しい松山のジャズのシーンに発展して欲しいと思います。幸い先輩バンドのクラッシュとの折り合いも悪くない、2008年10月に松山で開催される四国ビッグバンドフェスティバル(主幹クラッシュ)にも参加するようです。私がジャズを始めた頃とは大きく違った新しいジャズの風が松山に吹いているような気がしています。

愛媛県のジャズストリートおよびジャズタウンなど  2008年8月19日記
現在、愛媛県下の最大のジャズイベントは今治ジャズタウンでしょう。1999年しまなみ海道開通の愛媛県主催の祝賀を契機に始まり、翌年から今治市主催のジャズイベントとして、今治のスウィングキッス・ジャズオーケストラのバンドマスターの平尾氏が実行委員長を務めて毎年開催されてきました。途中、平成の大合併がイベント開催に与える影響が心配されましたが、予算の減額はあったものの継続されています。猪俣猛氏を中心にした楽しい企画つくり」で、今治地域に根付いたジャズ育成(例・今治スウィングガールズ・2006年)や青少年のジャズ育成(例・ジャズ甲子園・2007年開始)など、毎年次々と新しい試みを打ち出していて楽しく盛会です。2008年夏に10周年記念イベントが開催されました。実行委員長の平尾史郎氏と彼を支えるスウィングキッスのバンドメンバーと今治市民の意気を多とします。
愛媛県最南端の小さな海辺の町(愛南町・元城辺町)の野外円形広場で「ジャズ イン 南レク」は地元出身のプロベーシスト岡田勉氏を柱として、玄人志向の黒っぽいジャズが聴ける盛夏の稀有なジャズイベントでした。2006年の第20回まで続きましたが、2007年は休止。2008年も開催の案内がありません。城辺町の青年団の熱意と頑張りは素晴らしいものでしたが、平成の合併以後は「予算がいっそう不自由になった」と小耳に挟みました。継続は難しかったのでしょうか。
松山では、シュガービレッジが1999年から毎年2回のペースで開催されています。2007年5月は第14回でした。ショット・バーの若いオーナーK氏の熱意と人徳でまとめられ、6〜7店舗の店がそれぞれに主体となって運営されています。ますます盛会で「定例化・定着化している」と思われます。「松山おいでや!ジャズストリート」は年1回開催で、2008年1月に第6回を開催しました。こちらはミュージシャンが主体になって運営する方式です。

四国のジャズストリートなど  2008年8月19日記
四国で最も規模が大きく歴史のあるジャズ・ストリートは2008年に20周年を迎える徳島ジャズストリートです。1988年から年2回開催され、2008年2月に40回を数えました。ドラマーで実行委員長の太田純一郎氏の情熱と尽力で主導されて、10〜14会場、30〜35バンドが出演する四国最大のジャズストリートに成長しました。永年、夏8月はライブハウス中心のジャズストリート、冬2月はホテル3箇所でのステージ演奏の形式で開催されてきましたが、高齢の太田氏は数年前に名誉顧問に退かれて、現在ではピアニストのT氏を実行委員長にしてジャズストリートに参加する店主が実行委員会を運営する形態で開催されているようです。
高知サマージャズは、2002年にジャズライブハウスのオーナーS氏がご自身が経営する2店舗でのジャズストリート形式で開催したのが初まりで、2年後に運営をギターの岡本氏を実行委員長とするミュージシャン主体の実行委員会組織に委譲されて、一挙に参加会場とバンド数が増えて、2008年サマージャズは8会場16バンドの盛会となりました。2005年から1月にウィンタージャズを追加開催し始めました。
2006年から香川県丸亀市で丸亀ジャズストリートが始まりました。ライブハウスのオーナーでベーシストのF氏が主体となって実行委員会を運営しているようです。3回目の2008年は6会場で16バンドの出演となりました。丸亀市の方々の支援を得て急速に盛大になっている印象です。
2006年1月松山おいでやジャズストリートのときに、徳島ジャズストリートと高知サマージャスと松山おいでや!ジャズストリートの3つのジャズストリート実行委員会の代表が集まって、四国ジャズストリート・ネットワークを約束しました。実際に「何かをする目的」はなく、「相互に連絡が途絶えないように気持ちを合わせよう」と言う程度の結びつきです。

えひめジャズネットワークの現状  2008年8月19日記
2001年9月に発足した”えひめジャズネットワーク”は@「クラッシュ・ジャズオーケストラ」(松山)Aスウィングキッス・ジャズオーケストラ(今治)Bかちまちジャズ倶楽部(松山)C東予ジャズ研究会(東予・新居浜・今治)Dモンク・ミュージックジャム(松山)の5団体が連盟する協会として、傘下に80名の会員を擁して活動を続けています。愛媛県文化協会の会員です。会長はピアニストの栗田敬子氏で、定例事業は9月の「ジャズ切磋琢磨」と11月の「坊っちゃんジャズフェスティバル」です。
ジャズ切磋琢磨は100人の会場のステージ方式で、一般客は集客せず、演奏者だけで聴き合う方式です。2000年に始まり、毎年8〜10バンドが出演し、全バンドが演奏し終えるまで誠実に聴き合っています。聴き手が全員ジャズ・ミュージシャンなので、ゴマカシや失敗は見抜かれます。なので大いに緊張します。みんな真面目です。えひめジャズネットワークの総会も兼ねています。
坊っちゃんジャズフェステバルは800人会場でのステージ演奏です。連盟の5団体から推薦されたバンドでステージをつくります。担当団体は1年交代の持ち回りで、担当団体から実行委員長が指名されます。会員は大舞台で演奏出来ることを楽しみにしています。2001年の第1回は県民文化祭の重点部門として取り上げられての初開催でした。2002年から2005年までは文化振興支援事業などの助成を受けての開催しました。2006年からは愛媛県県総合文化祭・ジャズ公演として継続しています。えひめジャズネットワークは愛媛県下のジャズ仲間を連携付ける大きな働きをしていると思います。愛媛県ではビッグバンドとコンボとの垣根が低くて、ミュージシャンは自由に兼任しています。えひめジャズネットワークの存在も一助になっていると感じています。

松山のジャズ・ライブハウス2008  2008年8月19日記
現在、松山で定例的にジャズライブをしているライブハウス(もちろん私が知っている範囲)は@ムーン・グローとAキーストーン・バーとBモンクとCハーフ・ノートDジャズ・イン・グレッチでしょうか。
ムーン・グローはジャズピアニストの伊賀上がオーナーで、間もなく25周年だと思います。月曜から土曜まで何らかの形態でジャズ演奏をしています。
キーストーン・バーはドラムの櫻井氏がオーナーで、毎週金曜と土曜はプロ演奏家のピアノデュオ、火曜日は若手プロアマ混合のカルテット、木曜日は若手のソロ・ピアノです。開店15年くらいでしょうか。
モンクはギターリストの関家氏がオーナーで、3度にわたる店内の拡張により100人を収容できるようになりました。グランドピアノもあり音響設備も整っていて、素晴らしいライブハウスです。火曜日にジャズ・ライブ、木曜にジャズではないジャンルの定例のライブがあります。加えて、中央からのミュージシャンのライブが毎月2〜3の開催されています。
ハーフ・ノートは松山の新しいジャズシーンとして2008年2月に開店しました。年中無休でジャズ生演奏が入っており、松山のジャズミュージシャンに演奏の場を提供しています。
「ジャズ イン グレッチ」はドラムの高橋氏がオーナーです。ここの演奏は演奏する人も客なので、イントロやエンディングの繰り返し練習をしたりもします。そんなバンドにも奇特なファンがいたりしていて、ときどき盛り上がっています。今年が開店20周年です。

愛媛のジャズ・イベントの10周年  2011年記
中国四国架橋「しまなみ海道」の開通記念イベントをきっかけに始まった「今治ジャズタウン」は2009年に10周年を迎えました。今治市からの援助は終了したようですが、平尾氏を中心としてイベントを開催されています。えひめジャズネットワーク主催「坊っちゃんジャズフェスティバル」は文化支援事業・国際交流支援事業などの援助を経て、2008年からは愛媛県総合文化祭ジャズ公演として継続し2010年に10周年を開催しました。このイベントも継続の方針です。松山おいでや!ジャズストリートは2012年1月に10回目を迎えます。これは2008年以降は完全な民間イベントです。

ワイズ・カフェの開店と松山のジャムセッション事情  2014年記
2012年にワイズ・カフェが開業しました。生演奏の場所として大々的に開店したわけではありませんが、ジャズ・ピアニストである副店主の芯の強い努力で、ジャズに限らない広い分野のミュージシャンが集まり、色々なライブが行われています。毎週火曜日と金曜日にジャズのジャム・セッションが開催されています。ジャズ・ミュージシャンの仲良し交流の場の趣きで、賑わっています。現在、私が知っている松山市内の定期のジャムセッションは、モンク第一水曜日20:00〜22:00、ジャズ・イン・グレッチ毎週土曜21:00〜23:00、ワイズ・カフェ毎週火曜と金曜21:00〜23:00です。それぞれに特徴をもっていて、人が集まっています。

2012年以来ほぼ10年間、更新をサボっていました。私が想う松山ジャズの2012年から現在まで、書きます。
ジャズ・ライブハウスの2021年現在  2021年10月記
 ジャズ・イン・グレッチはオーナーが代わりましたが、新オーナーは元オーナーを尊敬しジャズ演奏を愛するひとで、そのまま店も店長も引き継いで続いています。店長の老齢とコロナの影響で、開店は週のうち2〜3日と不定期になっています。定例演奏は毎週土曜日のセッション(20時〜22時)です。(セッションは別項で紹介)
 モンクはスペースを広げて、ますます良質の音楽スペースを提供しています。全国からのミュージシャンのライブが月2〜3回企画されます。有名ミュージシャン(ジャズ・ジャンルは1/3くらい)の出演も多いです。地元ミュージシャンの定例ライブは水曜(栗田敬子)、木曜(モンク企画)で、良質のライブを提供しています(ライブ・チャージ1000円)
 キーストーン・バーは10年前から二代目オーナーです。二代目もジャズに造詣のあるピアニストです。金曜日と土曜日にジャズ・ライブ。演奏者は開店以来20年間代わらず渡部氏P・吉岡氏Bが中心。王道ジャズライブ・バーです。
 ワイズ・カフェは毎週火曜日のジャムセッション、歌謡曲生伴奏、ハワイアン・尺八・俳句・ポルトガル音楽など種々の催し企画が目白押しで、常連客で賑わっています。月1回程度の外来ライブあり。
 カラフルは元来ジャズ系ではないのですが、第一金曜日にゴスペル・ライブです。月1〜2回フォークやオールディーズのライブがあります。
 ムーングローは盛況で続いているようです。また、「ゴスペル」と言う名前の店をジャズ・ミュージシャンが運営して、ジャズ演奏が行われているらしいです。両店ともに、最近行ったことがないので詳細は分かりません。
 ハーフノートは、7年間良質のジャズと若手ミュージシャンの育成に貢献して、
   年に閉店しました。
 
ピアノ・ラウンジは全日空ホテルの最上階ラウンジにあり、演奏しています。

ジャム・セッションの2021年現在  2021年10月記
 ジャムセッションをしている店は、ジャズ・イン・グレッチとモンクとワイズカフェです。
ジャズ・イン・グレッチは毎週土曜日20:00〜22:00です。器楽器のみのセッションで、ボーカルは参加できません。フロントにペットやサックスがいます。フルートやクラリネットももたまに参加します。ギターは伝統的に少ないです。キーは原キー(なんてあるのかどうかは知りませんが)のみです。セッション・リーダーはいないので、曲目は常連の参加者たちが相談し合って決めます。ConfirmationやWaltz for Debbyなどが伝統的に好みです。ジャズ・ロックは稀で、ロック・ブルースやフュージョンは選ばれません。参加者は毎回8人くらいで、常連は30歳から60歳の社会人が10人、学生・20代が10人、総勢20人です。ときにジャズなのか騒音なのか分からない統制のない時間帯が長いのもグレッチ・セッションの特徴です。
 モンクは栗田氏がセッションリーダーです。開始当初は歌と器楽が半々でしたが、現在は1対2でしょうか?歌は歌詞カードなしに歌うことが原則です。器楽系もリーダーが仕切るので延々とソロが続くことはありません。平均的に水準の保たれたセッションです。
 ワイズ・カフェはボーカルが中心です。ボーカルの人数は多く、毎回10名程度が歌います。伴奏のトリオはベテランなので、安定しています。セッションを始めた当初は、「レベルそこそこ」でしたが、年を重ねてきてそれぞれが上達してきて、それなりにレベルが上がっています。

えひめジャズネットワークの2021年現状  2021年10月記
 2001年9月に発足した”えひめジャズネットワーク”は20周年を迎えました。運営をすこしずつ変えながら、現在も続いています。会長は栗田敬子氏で変わらず、かちまちジャズ倶楽部、クラッシュジャズオーケストラ、スウィングキッスジャズオーケストラ、モンク・ミュージックジャム、東予ジャズの5団体の連盟も変わっていません。
 主催イベントの「ジャズ切磋琢磨」は会場を2019年にエスパス21からモンクへ会場変更しましたが、「観客は呼ばず、出演するジャズ・ミュージシャンがそのまま聴き手になる」と言う初回からの変わらぬ形式で、22回目を終えました。老若を問わす、経験の浅いジャズミュージシャンの目標として、またジャズ仲間の連携の場として、その価値をますます高めています。
 坊ちゃんジャズフェスティバルは、第12回で開催担当連盟団体を3巡し、担当団体の負担が大きいという理由で1年休みました。以降、ビッグバンドの出場参加はありません。栗田会長をはじめとする中井・藤田・本村・など女性有志が主体となって、サイズダウンしたコンサート形式の音楽会を企画し、マドンナ・ジャズフェスティバルとして再開しました。同時期に「県総合芸術祭ジャズ公演」として、明確に県総合文化祭の事業となりました。20年砥部町、21年八幡浜市、22年伊予市と県内の市民ホールでの開催を続けています。たびごとに様々な工夫が必要ですが、解決しながらマドンナ・ジャズとして8回目(通年して20回)を迎えます。
 会長の栗田敬子氏は2021年に「愛媛県知事表彰」を受けて、”えひめジャズネットワーク”20周年に華を添えました
追記:2022年地域文化功労章・文部大臣表彰


ジャズ・イン・グレッチの高橋修氏のご逝去とオーナー交替  2022年10月記
 2022年2月、ジャズ・イン・グレッチの創業者Drの高橋修氏が72歳で亡くなりました(死因はコロナではありません)。ジャズ道場を自任し、実際に多くのジャズ・ミュージシャンを育ててきたオーナーであり、店でした。コロナ流行の最中でしたので、追悼演奏会なども出来ずに無念でした。店はTa氏が引き継いで、ジャズの灯を繋いでいます。

新型コロナ禍下の松山ジャズ・イベント、2021年と22年の状況  2022年10月記
 2021年の松山ジャズの状況はほぼ全滅でした。ライブハウスが全国的に自粛要請の目玉的ターゲットになったのはご存知の通りです。ジャズに限らず松山のライブハウスも営業日・営業時間はコロナの感染拡大状態に左右されて、スタスタになりました。営業日は少なく、ライブ演奏は自粛的で、お客さんが入りませんでした。
 営業日は2022年5月から
ほぼ通常の営業状態に戻りましたが、盛夏までは客は少なかったです。県外との交流は秋まで抑制的でした。
 マドンナ・ジャズFは幸いにもコロナ流行の谷間を縫うように20年.21年ともに開催できました。22年も11月開催予定です。おいでや!ジャズ・ストリートは2000年1月は開催できましたが、21年と22年は開催できず、22年に委員長が交替して23年は再開のタイミングと開催様式を検討中です。


(南海放送)愛媛オールスターズJAZZフェスティバル 2014年スタート〜現在(In 八幡浜)  2022年11月記
 2014年12月、FM南海開局記念・愛媛オールスタージャズ・フェスティバルとしてスタートし、以後年1回年末に開催されています。主導は南海放送で、2020年からは南海放送と八幡浜市の共催です。愛媛のジャズを40年間支えてきたプロ・ジャズミュージシャン堤宏文、伊賀上ひろし、栗田敬子の3名を柱として、アマチュア参加もあって、4時間を越す大ジャズステージです。ステージ音響はとても良好です。2022年12月4日に開催予定です。

新型コロナ一段落後の松山ジャズ・ライブハウスの状況  2023年6月記
 2023年3月から松山のライブハウスは、クラスタを警戒しながら通常営業に戻りました。5類に移行した5月からは、営業体制はコロナ以前に戻っています。客足はまだ充分には戻ってない感じがするのですが、コロナ以前から松山のジャズファンの老齢化は顕著です。この3年間で外出する足がますます遠のいた感じです。そう言う私自身が夜出かけるのが億劫になりました。
 ジャズ・ライブハウスの営業時間・演奏時間が早まりました。5〜6年前から8時スタートに早まる傾向にあったのですが、コロナ中は営業時間短縮がそのまま7時スタートで残って
続いています。10年前は9時スタートだったことを思い出すと隔世の感があります。

 昔のジャズを聴く人の「タバコ、酒、夜更かし」は松山では過去となりました。代わって「ジャズを歌う、ごく少人数ジャズを演奏する」ひとたちが集っています。中央からのジャズ・ミュージシャンのライブはボツボツあるものの、まだ少ない感じです。

2023年「松山おいでや!ジャズストリートの再開」と「今治ジャズタウン設立者の逝去と終了」  2023年7月記
 2023年初に、スウィングキッスジャズ・オーケストラのバンドマスターで、今治ジャズタウンの創始者で主催者、えひめジャズネットワーク創設からの理事・平尾史郎氏が急逝されました。60歳代だったこともあり、愛媛のジャズ界には大きな衝撃が走りました。今治ジャズタウンは今年2023年8月第25回開催を最後に終了します(平尾氏自身が2023年終了を宣言されていました)。
 おいでや!ジャズ
ストリートは2020年1月(第18回)から3年間開催できず、その間に委員長が交替しました。2023年6月に新委員長の元に第19回が開催されました。
 マドンナ・ジャズフェスティバルは2023年も開催されます。マドンナ・ジャズを主催するえひめジャズネットワーク会長・栗田敬子さんは、2022年11月に地域文化振興功労文部大臣賞を受賞されました。
 南海放送・愛媛オールスターJAZZフェスティバルは2022年12月を最後に終了しました。



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