その1 | 家でコソコソ、出掛けるのにコソコソ、帰るのにコソコソ | ||
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子供は「ピアノの練習をしなさい。もうすぐおさらい会でしょ」とか「ま〜練習しているのね。えらいわ。頑張ってね」と励まされたり誉められたりする。おじさんは「ピアノなんか弾いてないでドアの取っ手を直して下さいな。」とか「ジャムセッションなんかいうてもどうせ遊びでしょ。」とかなんだか待遇が違う。私のところだけではないようだ。最近父親になった若いアマチュアピアニストは「ピアノ禁止令が出た」とかでセッションにコソコソ現れ、終わると一目散に帰宅する。最近それもバレてバンドは休会したようだ。 家防法(家庭崩壊防止法)なるものをアマチュア・ジャズ・ミュージシャンのHpで知った。家で肩身の狭い思いをしているアマチュア・ジャズ・ミュージシャンは少なくないようだ。ゴルフもやりすぎるとひんしゅくを買う。私の業界では「ゴルフのシングルはある種の恥」と言われていた時期があった。でもだいたいはゴルフは「健康にいい」とか(ここが問題なのだが)「健康テキ」とか言われて目の敵にはされない。ゴルフも休日ごとに出掛けるので家防法に抵触すると思うのだがね。とにかくスポーツ系の趣味は「健康のため」と言う黄門さんの印籠のような言葉で家庭内世論を説得する力がある。音楽の趣味は「なになにイイ」とかいう強力な決めがなく立場弱い。「ボケ防止にいい」なんて言う人がいるが本当だろうか。音楽練習は「健康にいい」とは言い難い。汗は結構かくが、脂汗とか冷や汗とかあまり健康テキな汗ではない。「ピアノを弾いて痩せた」と聞いたことがない。大した運動にはならないようだ。ところでクラシック音楽のほうは家防法の発令の話をあまり聞かない。アマチュア・ジャズ・ミュージシャンの受難は健康に「良い悪い」だけではなく「不健康テキ」とか「なんかアヤシイ」とか、そう言った偏見に原因があると私はみるのだ。 ジャズの練習は夜のライブハウスなどの酒を飲むところですることが多い。「女も出入りするに違いない」と誤解されていると思われる。ま、アマチュア・ジャズおじさん達もまったくの潔白というわけでもないのであまり胸は張らないが、ゴルフの方も実はソートーに「アヤシい」のが多い。でも疑われない。羨ましい。そんなわけでアマチュア・ジャズおじさん達は家でコソコソ、出掛けるのにコソコソ、帰るのにコソコソ。ちょっと肩身狭い。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2001年5月25日記 |
その2 | 私のピアノ達 | ||
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最初に買ったのは新品のヤマハアップライトだった。「楽譜立ての部分が前に出て少し開く」というのがウリだった。これは新品で買って職場に置いた。最初のピアノなので可愛かったが、だんだんキンキンした感じの音と堅く浅いタッチが気になっていた。6年目に「捨てるのは嫌だが余っている」というアップライトピアノを無償で譲り受けた。昭和30年終わりのヤマハ製で、音が柔らかく深いタッチ感が気に入っている。アクションの修理が時々必要になる。先のアップライトはライブハウスに引き取ってもらって今も使われている。 1代目のグランドはカワイ。中古で60万円だった。2メートル10センチあり存在感がうっとうしかった。きらびやかな音は割と良かったのかもしれない。初心者の私には鍵盤が重く深かった。それでタッチを浅くしてもらったらキンキンな感じになった。音も大きすぎて困った。ボストンのピアノを弾く機会があり欲しくなっていた。その頃楽器店のライブ用レンタルピアノがボストンだった。更新するときに中古で譲ってくれるよう頼んでいた。炎天下の広場でも見た。雨に濡れるのも見た。が一向に構わない(うちに来てから台風のとき雨が吹き込んでまた濡れた)。と待っていたら1年ほどで譲ってくれた。70万円だった。古いグランドピアノは近くの幼稚園が引き取っていった。1900年から93年の3年間、おおよそ愛媛での野外コンサートにはこのボストン・ピアノが使われていた。たくさんの有名プロが弾いた。本田さんや菊池さんが弾いているのは僕も見た。なんて別にちっとも自慢でもないし嫌でもない。横に金文字でBOSTONと書いてあるのは特注らしく気に入っている。弾きやすいし音も優しい。演奏会毎に調律したとのことで、100回を超える調律を受けたようだ。僕の所に来てからは半年に1回とずいぶん手抜きだがあまり狂わない。だんだん気に入って、とても可愛く思っている。 僕はタバコを吸うので焼けこげが問題だ。初代はアップライトもグランドも鍵盤に焼けこげがついた。2代目は気を付けてピアノの鍵盤の上に灰皿を置くのはやめた。調律師がピアノの中からタバコの灰や焼け残りが出てくるの嫌うからだ。 スタンウエイを薦めるひとがいる。自分だけの独り弾きを目的にするのならともかく、酔っぱらって酒場で弾きたい僕は、家にこれ以上に良いピアノを置くことに興味がない。ライブハウスのピアノは僕のピアノよりも更に状態が悪いのが多い。「うちのスタンウエイではうまく弾けるのに・・・・」なんてつい口に出ると非常にマズい。タバコの火も気にしなきゃいけない。と言い訳して、高嶺の花のスタンウエイは欲しがらない。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2001年6月3日記 |
その3 | 私の夜の街 | ||
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職域の会の世話をしていることもあり飲みに出る機会は多い。酒は好きだ。大酒のみではない。ボトル1/3でふらふらになる。酒も好きだが酒場の雰囲気がもっと好きだ。カウンターにしろボックスにしろ店に座る瞬間が気持ちいい。実家はネオン街まで徒歩5分だった。帰省すると風呂上がりにトコトコ歩いて出掛けて千鳥足で帰った。それで夜街に出る習慣が出来た。結婚して住宅街に出たのでタクシーが必要になったが、それでも10分程度、料金も2000円は出ない(そういう場所を選んだ)。そんなわけで週に2〜3回は飲みに出ている。 30代後半から40台始めは若いおんなのいる店へもよく行った。行き付けの按摩士が「嘘をつく小指に出会う夜の街」という名句を創った。そんな気分だったかな?。ピアノを始めたのでライブハウス通いが加わった。一番飲んでいた頃だ。ピアノを始めて5年目くらいは弾きたくて弾きたくてたまらなかった。実力が伴わないから、店はお愛想で渋々「ちょっとだけいいよ」って言ってくれて1〜2曲弾かせて貰った。あの頃はもっとたくさん弾きたいと思った。40台後半になってピアノが入ったクラブ風スナックが出来た。「客の少ないときは弾いていいよ」と言われてちょくちょく通っていた。だいぶん人がいるところで弾くのも慣れてきた。でもまだかなり緊張していた。2年前、僕がいま時々通っている店を知った。ピアノバーだけど専属のピアノがいない。客が来て勝手に弾いている。ずいぶんの初心者もいるけどマズターは嫌がらない。「猫ふんじゃった以外ならなんでもいい」という方針だ。「半年で一曲勝負」の人もいて真剣さが伝わってくる。そんなリラックスした雰囲気で30分とか40分とか長い時間を何度も弾かせてもらった。上手の必要はなくても店で弾くのは緊張する。1〜2曲はいいが20分を越えるとミスが多くなる。曲数も7〜8曲、曲想の違う曲を並べる必要もある。しくじりを勘弁してもらって弾いているうちに30分の演奏が出来るようになってきた。平静心も徐々に保てるようになった。 ピアノが弾けるかもしれない会合には必ず参加している。「仲間内でピアノラウンジを貸し切るとき」などは呼ばれなくても押し掛ける。そして頼まれなくても弾く。それも20〜30分ステージのつもりで演るのだ。来ている人に迷惑でも構わない。職域の仲間内では僕はだいぶん長老になった。強みだ。年をとって良いこともたまにはある。 結構苦労も無理もして夜街でピアノを弾いているのだが、覚え始め当初の「聴いてもらいたい」とか「上手になりたい」とかの灼ける気持ちは薄くなった。ピアノを前にして緊張しない、平静心を保てる自分が欲しいと思っている。自意識過剰や関係敏感妄想が表に出るようでは素人ピアノは自分も他人も楽しめない。技量や音楽性にとらわれない自分を維持できるようになりたいと思っている。 60歳を過ぎたらピアノ・バーでちびっと飲みながらピアノを弾いていたい。ときどき来てピアノを弾いて帰るじいさんがいる。そんな存在になりたいと思っている。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2001年6月3日記 |
その4 | ネオン街への道 | ||
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最近だいぶん減ったがジャズの練習を含めて週2〜3回は飲みに出ている。「えらく理解の深い家庭だな」と思われるかもしれないが、結構努力もしている。私はこの10年間ずっと、職域等の会合のために必ず週2回以上会合に出ている(2年前までは週5回)。会がなければ自作する。疲れていて家で休みたくても必死で会合(または自作会合)に出掛ける。そして飲みに出る。途中、中傷や墓穴による多少の内乱があったがヘコタれない。さらに10年間次々と会を創った(例 8年前松山○●会、6年前愛媛○●△会、4年前職域バンド等)。そうしてそれぞれの会の会長や役員を務めると、どんどん会合は多くなる。今や周囲には私が何の会に出ているのか分からなくなっているはずだ。そういう努力のうえに現在の自由があるのだ。ほんとかな〜(^。^;) 格言「ローマ(ネオン街)への道は1日にしてはならず」 |
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Smiley(^-^)Tama | 2001年9月14日記 |
その5 | 私のピアノ部屋 | ||
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私は自宅にグランド、職場はアップライトを置いている。職場にピアノをおけるのは自営業の特権だ。仕事時間中に練習が出来るのは繁盛してないからだ。どちらも防音はしていない。職場は鉄筋なので割と響かない。でも仕事中にピアノに熱中していると職員から白い目で見られるので、かなり遠慮気味だ。仕事の合間のピアノは私の最上の喜びだ。忙しいときほど弾きたくなるので困る。ビンボーなのは職場のピアノのせいだと思われていて、なんども取り上げられそうになったが死守している。10年前自宅を建てるときは「父(私のこと)の部屋」の確保に全力を挙げた。結局客間と共用になったが、客なんて滅多に来ないので私の部屋だ。24畳と広いのが自慢だ。防音を真剣に考えた。設計図も出来ていたのだが、お金が足りなくて直前に取りやめた。口惜しかった。小さな防音箱を入れる方法もあるのだが、息苦しくなりそうで躊躇している。だからどちらの部屋も練習は夜9時までだ。ピアノ練習時間の制限は、隣近所への配慮よりも家庭内非難のほうが強力だ。「受験生の子供への配慮が足りない」と責められる。どうせ、ぜ〜んぜん勉強しないのだから関係ないと思うのだが、「父親としての真剣味が足りない。息子の成績が悪いのは遊びすぎの父親を見て育ったからだ」などとクドクド説かれるとアッサリ降参してしまう。仕方ないので出かけようとすると「息子が勉強しているのに父親は飲みに行くのか」と待機を命じられる。それで家にいると息子はぐ〜ぐ〜寝ていたりする。間もなく息子の受験もたぶん終わるので(浪人するかな(;-_-メ;))、それまでのことと無抵抗主義を守っている。 | ||
Smiley(^-^)Tama | 2001年9月19日記 |
その6 | 私の20歳 | ||
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肩までの髪(髪の毛はいっぱいあった)、前3つボタンのベルボトム・カラージーンズ。僕のお気に入りは赤、紫、黒の3色縦縞ジーンズ。ウエスト68p(今90)。8pのハイヒール(2万円もした)、ジーンズの裾はノーカット(普段は8p切る)、靴を脱ぐと袴状態になった。黒に金ラメをちりばめた長袖セーターを肌上に着る。胸にはでっかい金属玉を珠々状にしたネックレス(夜店で買った)。ブレスレットも金鎖。格好は流行のヒッピーだけど、しっかり親から仕送りして貰って2DKマンションに住む田舎者おぼっちゃま(当時はプチブルと言った)。濃緑に塗り替えたコロナ1900sl、シャコタン(車高を短くすること。素人ラリーに出てサスが壊れた)、18pの小さなハンドル、19インチタイヤ(パワステでなかったのでハンドルがむちゃ重かった)。1,3,5度だけでエレキベースを弾き、京都から額割られて逃げてきた革マルを手当てして夜通し討論する(お礼に火炎瓶やゲバ棒を試し振りさせてもらった)が、決してシンパではなく、革マルにも民青にも機動隊にも通じて身の安全を図る日和見。酒とタバコを覚え、ナンパにいのちをかけ、マージャン、コントラクトブリッジ、日活ロマンポルノ、ダンパで青春を浪費する青年。 | ||
Smiley(^-^)Tama | 2001年10月13日記 |
その7 | 私のお小遣い | ||
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友達の趣味で多いのは何と言ってもゴルフだ。ゴルフはプレーフィーや練習場代などゴルフ費として明確に整理できる項目もあるが、昼食代(しばしばビールなども飲む)とか参加費(実は賞品代や飲食費)などゴルフとは直接関係のない費用もある。またゴルフ旅行と称して、家族置き去りの海外旅行を企むおじさん達は実に多い。中には若い女性同伴のゴルフ旅行などという外道もあるのだが、おじさん達の場合はそれもゴルフ費用に算入する。ゴルフ場の会員権はバブル時代には投資と言われたが、本来は利子も付かず寝かせてあるだけの金だ。なのに、なかなか手放さない。聞くと年1回の海外ゴルフ旅行、同じく国内旅行、それに月3回のコース、週2回の練習場代で、年150万円くらい使っているという。道具代が別に20万円と聞いた。テニスは年30万のクラブ費が主であまり金がかかっていないようだ。ここでも若い女性とのペア費用は合算算入される。邦楽はピンキリだが割と出費がかさむらしい。お稽古謝礼と舞台出演料で100万くらいか?。道具代がときに300万円超とかの話を聞く。お師匠さんとの「道ならぬ恋」の噂は聞かない。趣味のために結構使っているおじさん達は多い。 私はいったいジャズピアノの趣味のためにどのくらいお小遣いを使っているのだろう。13年間の精算をしてみよう。ピアノを3台買った(200万・中古なので倹約だ)。電気ピアノやポータートーンで70万。アンプやPA器機で60万。ステレオや録音機器が40万、そのほかMIDIなんかの周辺機器で30万くらい(ぜんぶゴミになった)かな。ハード類は400万だ。レッスン料は最初の2年間、月1万円で24万円と7年目の通信教育費で6万円で、30万円。ぜんぜん教育投資をしていない。聴きに行ったライブは月1回として4000円×12×13=60万円。ほかに何かあるかな?。自分のライブやストリートに出掛けて50万。だんだんめんどくさくなってきた。ライブハウスやラウンジに行って練習をするので飲み代と練習代の区別はつかない。ゴルフだって飲食代やいい加減な費用も全部繰り込んでいる。入れちゃえ。毎月飲み代は7万円として13年間で7×12×13=1000万。こんなもんかな。締めて1540万円。1年で120万円か〜あ。ゴルフは150万。ゴルフより少ないジャン。ジャズピアノって倹約ジャン。飲み代を少し減らそうかな。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年1月28日記 |
その8 | 私の録音機器 | ||
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「アマチュアにはステージは滅多にないのだから毎回の練習演奏が思い出のステージだ」と心に決めて録音を保存することにした。最初の5年間は年1〜2回の発表会だけだった。6年目に毎週バンドの練習をするようになったが、初めの1年間は録音が数本しか残っていない。録音を充分に習慣化していなかったことや演奏前の緊張のために録音をしくじったり忘れたりしたらしい。2年目から揃い始めて4年目以降はほぼ全練習が残っている。MDを購入した時期に一致している。デジタルテープの明瞭な音質を愛おしく思いつつも、MDの確実性・簡便性のありがたさに心うつした自分を思い出す。500枚を超える自分の演奏の録音テープとMDの山は僕だけの宝物だ(世間的にはゴミだ)。 ピアノを始めた頃は録音といえばアナログ・テープしかなかった。良い音での録音にはオープンリールのテープデッキが必要だった。お手軽にはカセットデッキだったが、一般向けのデッキにはマイク録音機能は重視されず、会議の記録などが主な目的で音質は問われない傾向があった。ピアノを始めた時期に会議録音用を買ったが、長時間録音がウリの製品の音質は実にひどかった。すぐに高音質録音と銘打ったヴォークマン型のデッキを買った。音質は多少改善した(たいした差はなかった)が動作が不安定で録音にしくじることが多かった。それで音質は犠牲にしてワンタッチで確実に録音できる機械に替えた。新刊本のサイズで重くて実に不細工だった。2年間これを使った。録音テープが残っているが音質が悪くて聴くに堪えない。諦めていた頃にデジタルテープ(DAT)が出た。DAT用のソフトは発売されておらず、音楽マイク録音は重視されていた。携帯型で7万〜10万円、据置型(編集機能付き)は20万円と高価だったが躊躇なく購入した。DAT録音機を買ったミュージシャンは多いと思う。音質は画期的だった。素晴らしかった。一方でテープが1本2000円と高く、頭出しや巻き戻しがめんどうで操作性が悪いのが大きな欠点だった。そのため録音は度ごとにテープに落として保存した。それでも音質は抜群によくなった。携帯用と据置型をそれぞれ1台買ったが、携帯用は故障がちで新製品の発売を機に買い換えた。結局DATの録音機に40万円を使った。1年ほど遅れてMDが発売された。私はMDのデーター圧縮機能に疑問がもち、発売後1年ほど様子を見てから買った。実際、当初のMD録音はデジタルテープ録音に比べるとすごく悪かった。が、その後のMDの改良はめざましく、更に1年して買い換えたMDは(DATには叶わないものの)格段に音質が改善し、操作の簡便性でDATを圧倒した。私はもっぱらMDを録音に使用するようになった。MDデスクも発売当初は1000円程度と高かった。一方アナログテープは100〜200円と安くなったので、保存は録音ごとにアナログテープに落としていた。この時期が2年間あった。その後MDデスクが200円〜300円と廉価になってMD録音・MD保存にして5年になる。MDの1代目は1年で買い換えて捨て置いて紛失、2代目は1年で勝手に故障、3代目は1年目に落として陀仏、4代目は5年間愛用中(昨年新品への買い換えを主張する店員を説き伏せて2万5千円かけて修理した)、5代目は新しい多機能と軽量化に惹かれて買ったが、取扱方法理解不能とボタン文字判読不能により引き出しの肥やしにしている。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年2月19日記 |
その9 | 私の録音再生機 | ||
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中学生まで我が家にはレコードプレイヤーがなかった。中学1年生のとき、なにかのオマケで小さなレコードプレイヤーが届いた。小さなラジオが押入の片隅に捨て置かれてあった。こっそり自室に持ち込みレコードプレイヤーを接続した。自分の部屋でレコードが聴けるようになった喜びを切なく鮮明に憶えている。それから大学進学までの5年間、この小さなセットが僕の宝物だった。プレイヤーのローターのゴムがすり減って空回りを始めたときは近所の機械修理のおじさんにゴムを分けて貰って巻いた。ラジオの真空管が切れたときは電気屋を探し回って見つけた。プレイヤーのアームは重かった。子供の小遣いで買ったレコードは貴重だった。1000回聴くとレコードの溝はなくなった。レコードの負担を軽くしようとアームの反対側に錘を付けたら、歩くと針が飛んだ。ラジオのスピーカーは5p直径だった。音質を問うような代物ではなく、音が鳴るというだけのセットだった。だけど宝物だった。 大学生になって素晴らしいセットを持った音響マニアの友達が出来た。オーディオブームのハシリだった。知識を得て父に願い出てステレオを買った。高校時代、決して音楽器機の購入を許さなかった父が寛容だった。ラックスマンのアンプに、パイオニアの10pスコーカーとツイター兼用と25pウーハーを規格サイズのボックス(高さが1メートル・奥行きは70pもあった)に収め、山水のプレイヤーとティアックのテープデッキで再生した。日本橋で20万円だった。規格ボックスの威力が出て低域の伸びは素晴らしかった。中高域の音質はイマイチだったが、ロックを聴くに適したセットだった。大きすぎて引っ越しの度に難渋したが35才まで使った。 自営独立して一段落したこともあり、アンプの故障を機会に一新した。電気店でオーディオコーナーが片隅に追いやられているのを知って驚いた。アンプはやはりラックスマン。真空管とトランジスタの併用という諦めの悪さが気に入った。CD再生はフィリップス、スピーカーはパイオニア、50万円くらいだった。音質は格段に繊細になった。音質は気に入ったが、子供が小さかったことや仕事の繁忙のためにあまり聴かなかった。最近アンプが不調になったがラックスマンの取次店が松山から撤退し、対処なくそのままに放置している。 ピアノを始めてCDヴォークマンを買った。もう5代目になるだろう。鼓膜を直接振動させるヴォークマンの不自然な音響は好きではないが、ピアノの音を聞き分けるには都合がいい。自分でピアノを弾き始めてからステレオの音質に興味がなくなった。不思議なことだ。最近はコンピュータのCD-ROMで聴くことが多くなって、更に音質は悪くなったが平気でいる。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年7月22日記 |
その10 | 私の10000時間 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ピアノを修得するためには最低10000時間の練習が必要と聞いた。早速計算してみた。
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Smiley(^-^)Tama | 2002年7月24日記 |
その11 | 私の洒落とステージ衣装 | ||
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中学生2年に服装の洒落に目覚めた。友人が折りがなくなり膝が丸く飛び出したズボンを「格好悪い」と言ったのだ。寝押しを教えて貰って当晩から始めた。寝押しはときどきずれて2重線になった。まもなく家庭用のズボンプレスを母に買って貰った。当代風のシャレは大学2年生で憶えた。大坂の田舎で大学生活を送っていた私にとって、東京で浪人生活をしていた友人達の新しいセンスは驚きだった。白いシャツとサラリーマン・スラックスを脱ぎ、黒のエナメル入りのTシャツとカラージーンズに着替えた(ウェストは68pだった)。大変身だった。学生時代はジーンズやコットンパンツなどカジュアルウェーアが中心だったが、JUNだとかVANだとか、当時の若者のフォーマルも少しずつ憶えていった(この2ブランドは当時の普通の若者にポピューラーなブランドだったが、流儀が両極端なので使い回しできなくて困った)。そんなこんなで卒業までは多少は服装に気を配っていたのだが、就職と同時に忘れてしまい、所謂サラリーマン服を愛用していた。流行はときどきの買い物でネクタイ幅の変遷を知る程度だった(ウェストは73pだった)。特に自営独立した33歳から以降は意固地に服飾への無関心を貫いた。 38歳でピアノの発表会に出た。少し洒落てみたかった。永く服飾を忘れていたから、中年になった自分に似合うスタイルが分からなかった。迷ってデパートで一式ブランド物を揃えた。大奮発したのだが、ちっとも格好良くなかった(ウェストは78pだった)。それからカジュアルウェーアを試したり、イタリアンスタイルにしたり、ブランドを探したりと迷走し費用もかかったが、定まらなかった。年齢と体型の変化に意識が追いつかなかった。6年かかって「襟のあるシャツにネクタイと紺ブレザー」の定番に落ち着いた(ウェストは82pだった)。以降基本形は変えずにバリエーションを増やした。40代中頃から50歳までは職域会合も音楽シーンもこのスタイル一本で通した。50歳になって一層腹回りが成長し、それまでのパンツがゴミになった(ウェストは93pだ)。ブランドのパンツの多くはサイズがなく、あっても西洋人向けのデザインの腹囲93pパンツの裾を日本人の平均を下回る股下長でカットすると、実に不細工で再投資する意欲が湧かない。困っていたところ、今春ピエロパンツを縫製する女性に巡り会った。試しに仕立てて貰ったら実に涼しく楽だ。腹はゴム止めなので年々衣替えの度に買い物に走る必要がない。蝶ネクタイにベストを合わせたら、ステージ衣装としてもなかなか面白い(表紙の写真のようになった)。ピエロパンツにしてから、ますますいい女が寄ってこなくなった気はするが、とりあえずパンツ調達の悩みは解消した。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年9月5日記 |
その12 | 私の車とカーステレオ | ||
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21歳のとき父にせがんで車を買って貰った。謹厳な父だったが、この頃は柔和だった。入学以来3年間の私の荒れた大学生活を心配していただろう。実にバカ息子だった。父が柔和を努めていたのだと大学生の息子を持つ身になった今頃に気付く。契約が決まっていたギャランGTOは「女をたらすための車」だと告げ口されて(見抜かれて)、直前にコロナ1900SLに変更された。ともあれ車入手がすさんだ心情を抑える転換点になった。車に夢中だった。1年で4万キロを乗った。2年間は車とともに生活していた。当時はガソリンが1リットル50円と学生にとっては高価で、直後の72年からのオイルショックで一挙に100円ちかくまで高騰した。ガソリン代は月に3万円かかり、自分の食費を削って車につぎ込んでいた。勝手に独り旅をしたり素人ラリーに出たりで、車が私の学生時代を彩った。当時のカーステレオは8トラックだった。カセットテープは規格が出来て間がなく普及していなかった。カーステレオは贅沢品扱いで、録音が出来ない8トラック・テープは1800円(うどんが100円)と高価だった。カーステレオを鳴らしながらのドライブは憧れのアメリカ文明へ一歩近づいた心地をもたらした。8トラックではビートルズ等の洋楽は発売されておらず、もっぱら邦楽のニューミュージック系(サーカスとかユーミン)を聞いていた。3年たって厭きたらず、当時流行り始めたカセットデッキ・カーコンポ(スピーカーも替えた)を別装備した。結果は散々で、助手席の足元が煩わしくなっただけでなく、高域は刺激的に耳につき、低域はボーボーと意味なく共鳴し(ドルビー効果付きが良いとされた)、品格のない音になった。コロナは6年乗って手放した。中古値はなかった。 卒業して白のローレルを買った。117クーペがマイナーチェンジ前だったので、旧型を強く勧める筋があったが、私は新発売のローレルがたいそう気に入った。角張っていて尻がピンと高く切り上がった奇妙な形のセダンだった。発売当初はそのスタイルは絶悪評(すごい悪態をつかれていた)だったのだが、私は好きだった。排ガス規制発効の初年度で対策は触媒方式だった。エンジンは最低だった。スカイラインで勇名を馳せた6気筒エンジンだとは思えなかった。ハンドルが重く難渋した。発売4年目に人気が急上昇して(暴走族連が贔屓にした)、モデルチェンジ後は旧型の中古車価格が高騰した。6年後に求められて購入価格と同額で手放した。ローレルの装備のステレオはカセットに変わっていた。ボヤンとした音で気に入らなかった。暴走族連中もこのサウンドは気に入らなかったらしく、流行のケンウッド(当時はトリオかな?。ロック向きのギンギン音)製品に付け替えていた。就職して多忙になり、音楽はもっぱら車内で聞くだけになった。車で出張することが多く、車中の音楽鑑賞は大きな喜びになった。カセットなので自分で録音も出来るのだが時間がなく、出張先々のレコード店で既成のカセットを選ぶのが楽しみになった。クラシックが好きだった時期であり、ローレルではもっぱらモーツアルトのジュピタとかベートベンの第7交響曲が鳴っていた。30歳になった。ローレルは6年乗って手放し、新古車でセドリックを買った。このエンジンも触媒対策車で、なおかつ車重が大きく、走る喜びは一層失われた。車の走りに対する興味を失っており、オートマチックにした。ステレオの音はまあまあで、子供が産まれてからは益々家で音楽を聴くことが難しくなったので、車中のステレオが唯一の音楽生活になった。クラシックから歌謡曲に子供帰りして岩崎宏美や郷ひろみを聴いていた。ちなみに今もカラオケで歌うのはこの頃に聴いた曲だ。この濃茶のセドリックも暴走族に気に入られて中古車市場で歓迎された。 事業独立と車買い換え時期が重なった。新車は妻と共有でシビックになった。この頃の経済的自立への必死の思いと精一杯の節制心が懐かしい。すっかり車事情に疎くなっていたので、購入に当たって色々と試乗をした。走りと視界でシビックに決めた。実は思いのほか気に入った。冷暖房やシート・装備はこれまでになく貧しかったが、走りは前の2車より良かった。音響装備はカセットデッキだけだった。「カー・ステレオは付いているだけマシ」というコンセプトと感じた。家のステレオは故障し、カーステレオも聴かない音楽レスの3年を過ごした。 40歳でセンチアを買った。ふと立ち寄った店で衝動買いをした。スタイルが気に入った。いまでもこの車より気に入った形の日本車はない。それで10年も乗っている。ステレオはオートチャージャー付きのCDになった。音響は歴代の車に比べると格段に良くなった。ジャズピアノを始めていたので、この車ではジャズしか流れていない。記憶したいCDは車内用と室内用に2枚買って四六時中聴く。MDの装備がなく、テープ式の接続でMDを鳴らすと実に音質が悪い。最近、FM波での接続に替えて少々マシになった。MDは自分の練習演奏を聴くためだけに使っている。脂汗や冷汗が出るし、ときには眼前が真っ暗になるので、運転の安全面は問題だ。が、音質は問題でない。センチアは10年間で3万キロ、学生時代の1年間の走行距離にも満たない。それでもドアの取っ手が外れたりシートが変色したりと、寿命が見えてきた。車が好きで堪らなかった青年期の衝動は消え失せた。欲しい車のイメージがない。人生でもう一台、多くて2台だろう。本当に好きな車が見つかるまでこのままでいたいと思う。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年9月30日記 |
その13 | 私のギターとエレキ・バンド | ||
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中学受験は終わったが、父は「中学受験を理由に辞めたピアノに復帰するよう」には奨めなかった。妹は中学生になっても続けていたから、「息子は勉学に専念すれば良い」と考えていたのだろう。父の思惑に反して、私は勉強はせずプラモデルや軽音楽(歌謡曲やポップス)に夢中になっていた。小学生時代からの親友がお年玉でギターを買った。彼の応接間にオルガンが置いてあり、彼のギターと私のオルガンで歌謡曲を演奏して歌った。由紀さおりの「夜明けのスキャット」が好きだった。しばらくして僕もギターを弾きながら歌いたくなってアコースチック・ギターを購入した。中学2年生だった。既に成績下降傾向が明瞭だったので、厳格な父は「僕がギターを弾くのを許されない」と思い、友達の家に置いて週2〜3回練習した。コード(すなわち和音)の意味はピアノで分かっていたので、指型を覚えて、4分と8分音符の適当なリズムで弾いていた。 ビートルズとベンチャーズの登場により、エレキ・ギターブームが起こった。中学3年4月だった。僕も夢中になった。贅沢息子のSがエレキギターを買って貰った。その弟もドラムを買ったという。新築のお宅を尋ねた。アンプはたったの20ワット。でも、すごい音がした。胸がときめいた。大店商家の息子のMもエレキを買って、彼ら3人(ギター2台とドラム)で演奏を始めた。僕は横で聞いていた。レコードのサウンドにならない。4人でビートルズのレコード・ジャケットを見直すと、ポールが長いギターを弾いている。「ベースギターというものだ」と知った(「ベースギターを知らなかった」ってホントの話です)。楽器屋に行くと1台だけ置いてあった。2万円!。買えない。すると翌週、「使われていないベースギターが見つかった」とMが言い出した。Mの兄ちゃん(大学生)の部屋に”エレキベースがあったと言うのだ。しかも全然弾いていない”と言う。しばらくして「兄ちゃんは不良なので旅に出た」と聞いた。真偽のほどは定かではないが絶好のタイミングだった。黙って借り受けた。メンバーで僕が一番ギターが下手だったので、ベースの担当になった。「これで楽器は揃った」のだけど、生では歌声が聞こえない。怒鳴ってみても、エレキギターやドラム音量に叶わない。「マイクが要る!」。4人で楽器屋を覗いてみた。店にはマイクの在庫はなくエレキ楽器のカタログをくれた。一番下に小さく2つ、マイクの写真が載っていた。ダイナミック型とコンデンサー型、何のことか?。ダイナミック型6000円、コンデンサー型12000円。安い方にすることにした(知らなかったのだが、ダイナミック型を選んだのは正解だった)。注文して2週間で届いた。20ワットのアンプで、リード・サイド・ベース・マイクを鳴らした音響は、「それはそれはヒドイもの」ではあったが、僕たちは構わなかった。僕たちはエレキ・バンドになった。この一連のバンド結成の運びは、全過程で1か月ほどだ。中学3年生3人が揃って熱中し、情報を集めて学習し、好運に恵まれて行動すると、「仕事はものすごく速い」のだ。毎週水曜日放課後の練習はわくわく・どきどき、胸が締め付けられる喜びだった。練習中にSのお父さんに「うるさい!」と何度も怒られた。10年後に僕とSは、Sのお父さんと同じ職業を選んだ(お父さんは亡くなっていた)。Sのお父さんが教室に残した素晴らしい業績を知り業績を辿ったとき、僕は心底に恐縮した。 高校2年生で学園祭に出演した。「バラ色の雲と〜お」の歌い出しの瞬間は今でも鮮明に覚えている。翌年高3は野外ステージだった。このときは僕がバンド・マネージャーとして担任や学年主任と交渉した。演奏の許可は得ていたのだけど、ステージ直後に校長室に呼び出された。許可を得ていることを主張して処分は免れたけど、直後に「エレキバンドを結成してはならない」という校則が発令された。この頃は「エレキの中高生は不良」だった。30年後長男の生徒手帳に「エレキバンド結成禁止の校則が残っている」のを知って、息子に「父が創った校則だ」と言ってみたけど、息子は感心しなかった。大学生になって軽音楽部への入部を思案したが、ジャズ研であり、ピアノは特別に上手な同級生がおり、ベースはウッドベースだったので諦めた。エレキ同好会を創って、秋には学生紛争の真っ直中、ノンポリの立場で、「革マルの茶店でのゴーゴー演奏」や「民青主催のダンパの演奏」などの活動を行った。2年の秋で解散して、僕のエレキ・ギター時代は終わった。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2003年10月5日記 |
その14 | 私とスポーツ | ||
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幼少時は気のちんまい子供だった(らしい)。幼稚園(キリスト会系)の学芸会でキリスト役が割り振られた。僕は”体が大きいからキリストになったのだ”と思って自慢した。父が勇躍見に来たら”せりふが1つもない立っているだけの役だった”と嘆いた。小学3年1学期の級長選挙に負けた。対抗馬の彼は格好良かった。勉強は2番(僕が一番(^O^))、鉄棒の大車輪が出来た。僕はソーセージだった(ぶら下がっているだけと言う意味)。相撲の技のキレが鋭かった(僕の決め手は押し出しだけ)。取り組みをしてみて、彼の強い筋肉と投げ業のタイミングの良さに驚いた。運動神経の存在(即ち僕には欠如しているもの)を初めて意識した。かけっこで彼は1番だった(僕は2番)。運動会のリレーではアンカーの彼に僕がバトンを渡した。彼がゴボウ抜きする光景を、そして彼が受ける大声援を、僕は上がった息で喘ぎながら聞いていた。僕は彼の存在が眩しかった。鉄棒を練習した。大車輪は出来なかったが、飛行機飛びで彼に勝った。かけっこでは敵わなかったが、走り幅跳びでは代表になった。いずれも体格を活かした勝利だった。中学2年生まで僕は高い方から2番目だった。小4の3学期に彼が転校して、僕はちょっと安心した。 ソフトボールはまるでイケなかった。ボールにバットを当てる瞬間に腰が引けるのだ。「なんしよんゾ」と言われた。素振りで練習してみたが”いざ打つとき”には腰が引ける。守備は俊敏さの欠如のため内野は不適とされ、外野(ライト)に回されたが遠投が出来ない。投げるときも腰が引けた。4年生でピアノを習い初めて放課後遊ぶ時間がなくなったので、ソフトボールは沙汰やみになった。ソフトボールでの胸躍る楽しさと、意に叶わず失策や凡打を繰り返す惨めさとが、少年の僕の胸に深く残った。 僕が胸を張れるスポーツ歴は小学校5年生で終わる。小学校5年生の運動会ではアンカーを務めたのだが、その後高熱を出して1週間休学した。解熱してから登校したときの体の重さは忘れられない。もともとマラソンは得意ではなかったが、病後から突然ドベ(ビリのこと)になった。サボっていると先生に叱られた。僕も”えへらえへら”と誤魔化していたが、自分自身でも突然の運動能力の低下に驚いていた。羨明(光が眩しく見える)や頭痛が永く続いた。それらの症状がようやく終息した中学2年になって高血圧と蛋白尿が発見された。いま考えると、溶連菌感染症後に発症する小児の急性腎炎なのだが、当時はその研究は充分でなかった。中学2年生以降はだいぶん元気になったが、青ざめた顔色と高血圧は大学3年生まで続いた。大学教養時代の酒とジャズと無制限で自由な睡眠時間(48時間眠り続けたこともあった)が療養生活になったと信じている。 ところで高校1年生でこっそりボーリングを始めた。当時ボーリングは”贅沢遊び”とされていて、高校生は全国的に禁止されていた。5年後に日本でボーりングブームがおこったときには既に飽きていたが、たった5年早く高校生から始めたというだけで、大学に入ってから始めた友達とは頭1つ抜けていた。「フックボールがどうだ」とか「フィンガーの穴の開け方がどうだ」など”あれこれボーリング理論を語るにも関わらず”スコアがちっとも良くならない友達に対して「点を取るための要領が勘で分かる」という実体験と自信は、”早くに身につけた行為はいかに有力かという実感”として自分の人生訓にもなった。 大学入学して元気にはなったが、スポーツは相変わらず苦手だった。入学してすぐに軟式テニス部に入ったが、やはり玉際で腰が引けて、山なりの球道しか打てず、4ヶ月でやめた。卒業して、”ゴルフならなんとかなるだろう”と10年間続けたが、ハンディキャップは36のままだった。さすがに自分のスポーツ才能の欠如を思い知らずにはおれすに、35才でやめてジャズピアノに転向した。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年10月10日記 |
その15 | ジョビンを想って | ||
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「自分が生まれた時からボサノバ音楽は既にあった」と思い違いをして
いました。ハっと気付かされたのは1990年(私は1951年生まれ)、ジョビンを
TribuneするDVD(ハンコックが司会)の中で、歌手がNo more Bluesを「すべてはこの曲で始まりま した」と紹介したときでした。No
More Bluesは1959年の作曲だそうです。ボサノバは「新しい波」の意味です。 世界にボサノバが広く紹介されたのは1964年収録のアストラット・ジルベルトと スタンゲッツで発表された「イパネマの娘」です。リリースされた1965年当時は「アメリカが世界の中心」との思いが強くあり、軽音楽は「英詩に訳していない歌は国際規格にはなれない」風潮でした。シャンソンも、「アメリカ国内では多くが英語詩に替えて」リリースされています。注:「上を向いて歩こう」は曲名こそ「スキヤキ」に替えられていますが、坂本九の歌詞は「日本語のまま」です。当時としては「かなり例外的だ」と思います。 僕は高校生のときに「テレビでアントニオ・カルロスジョビンをテレビで観 た」と思い出しました。アンディーウィリアム・ ショーでギターを抱えた青年がアンディーの伴奏をしたのです。 いまはその画像をY-Tubeで観ることが出来ます。ジョビンは1965年に2回アンディーシ ョーに出演したようです。その2回の映像から「ボサノバ」が1964年の半年の間 に変容したことが見て取れます。 1回目はジョビンはイパネマをポルトガル語で歌っています。そしてアンディー の機械的単調な8分音符のノリを「そうではない!」と訂正しようしているように見て取れます。しかし半年後の映像では、ジョビンは「イパネマ」を英語で歌い、単調な8分音符割りになり、ストリングスがバックに流れます。ボサノバが地方音楽から 世界音楽へ変化したのです。民族の主張は消えましたが普遍性が飛躍しました。「その変身を許容し推進したのがジョビン、拒否したのがジョアン・ジルベルトだ」とされてますね。 僕が高校生で観たのは1回目のようです。1回目はアンディーが「ブラジルから 新しい音楽を連れてきた人です」と紹介しています。2回目は「今年はイパネマ がアメリカ中に流れました」という紹介です。「初めて」と言う紹介を覚えて いるので、1回目を見たのだと思っています。 1回目の出演のジョビンを見ると、彼の緊張と気負いが見てとれます。巨匠の若い日の意地と前のめりの気負いが見てとれて、嬉しいです。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2003年10月5日記 |
その16 | オーネット・コールマンと学生運動 | ||
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高1の頃に、聴いてもちっとも楽しくないのに、カッコーをつけて、ロープウェイ通りにあったジャズメッセンジャーに月1回、半年ほど通った。子供がタバコを吸って大人の気分に浸るようなものだ。最初に買ったジャズのレコードはシダー・ヴォルトンのCeder!で、ジャズメッセンジャーにいたおじさんに薦められて買った.。レコードは捨てたのでY-tubeで聴いてみたが、なかなか良いです。けれど高1生が初めて買うジャズ盤としてはどうだろうか。右も左も分からない高校生にこの盤を推薦したひとに、理知と思いやりは感じない。 2枚目はオーネット・コールマンだった。薦められた記憶はないので、自分で選んだのだろう。聴き終って、1か月分の小遣いを無益に使い終わった心の痛みと悲しみを思い出す。バイオリンがギーギー鳴り、リズムのないドラムがバシャバシャ騒ぎ、ハーモニーもメロディーも聴き取れず、この盤から歓べるところがなにひとつなかった。以後36歳でジャズピアノを習い始めるまで、ジャズ盤を自分で買った記憶がない。明らかにトラウマだ。 「何故オーネット・コールマンを買ったのだろう」と疑問だった。ジャケットは雪景色の中に黒人が3人、青いタイトル字。ネットで調べたらAt The "Golden Circle" Vol2だ。こんな魅力のないジャケットの盤を買ったのか、不思議だ。ジュリーロンドンを買えばよかったのに・・。 知らなかったけど、1966年にジョン・コルトレーンが来日したらしい。この年にビートルズが来日したこっちは熱烈歓迎した。高1でした。ウィキベデアによれば、来日時にコルトレーンは「オーネット・コールマンを尊敬している」と言ったそうです。60年代前半にフリージャズが勃興し、66年にコルトレーンが来日して、60年代後半に日本でフリージャズの最流行期を迎えました。 1965年インターン闘争に引き続く大学紛争が始まりました。1960年安保、1970年安保と日本におけるジャズの同軸興隆です。地元大手のレコード店では、店の中央の場所に「で〜んと広くジャズ・コーナー」がありました。注目の新着盤は天井から吊るしてありました。私は「店の新盤お薦め」を見て買ったものと思われます。時代潮流の波に高1生は呑まれたのです。Y-tubeでその盤のSnowflakes And Sunshineを聴いています。バイオリンがキーキー鳴っています。これはツライ!。悲しみに黒く沈んだ高校1年生の心象が蘇ってきます。 追記:1999年にオスカー・ピーターソン、2001年にコールマンが高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したそうです。ジャズ・ミュージシャンでこの賞を受賞しているのは、この二人だけだそうです。受賞者推薦委員会のメンバーは普通65〜70才(2000年当時)なので、1960年当時は25歳〜30歳。ジャズ・エイジャーです。フリージャズに傾倒したひと、傷ついたひと、音楽鑑賞の人生歴が伺えるような気がします。 「追記」 「1965年から始まった学生運動とフリージャズの興隆の同時性」について書きました。若い方々には???かもしれません。それで私の独断的な説明です。 ジャズ評論家のこんな文章がありました。以下、引用です。「フリー・ジャズの隆盛の背景には、当時の米国で盛り上がりを見せた「公民権運動」と、それに伴う黒人の意識変化があります。 特にマルコムXなどが唱えた「ブラック・パワー」は、多くの黒人にアフロ・アメリカンとしての自分達の文化への強い自負心を植えつけていきます。公民権運動に深くコミットしていた黒人ミュージシャン達が、「自己解放意識」と「アフロ・アメリカンとしての誇り」を持ち、人種差別に立ち向かうプロテクト・ミュージックとして、フリー・ジャズを演奏するようになりました 」。・・・以上なのですが、日本の学生は「米国の黒人差別解放運動=公民権運動」と「安保反対=米帝打倒」が同軸となって、フリージャズ→黒人の差別抵抗運動→米帝打倒・安保反対と繋がっていました。アメリカジャズ黒人は、日本人学生がそんな共感を持っているとは思いもよらなかったでしょう。嘘みたいでしょう?。だけど僕は「当時の現場の学生の(自分勝手な思い込み)心情にあったことだ」と思うのです。 学生には、革新=自由=自己解放の時代でした。オスカー・ピーターソンは商業的で白人に媚びていて保守的とみなされていたので、ジャズ好きを自称する限り、「ピーターソンを好き」とは口にできない時代でした。しかしながら、その風潮こそが「革新を唱える人たちからの抑圧(弾圧)であること」に気付いたとき、革新という言葉がもつ根拠のない輝きは失われました。群馬の山奥では京浜連合による同志粛清の惨劇が進行していました。 同志を愛するために、まず親を捨てよ。それを聞いて、私は躊躇なく転向しました。「ピーターソンが好き。コールマンは嫌い」。私は22才の冬でした。 |
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Smiley(^-^)Tama | 2002年10月10日記 |
その15 | 私の服装感覚ーブルージーンとの距離感のようなもの | ||
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高校時代は詰襟の制服だった。1970年、私は19歳でファッションの大きな自己変革を味わった。ミニスカートが世界を席巻し、ツイッギーの枯木のような肢体が多くの若い日本人を魅惑し、若者の溌剌とした健康を願う大人たちを怒らせた。年を置かずしてパンティーストッキングの普及が始まり、大学卒業までにストッキングとガーターベルトは駆逐されて、スカートとストッキングとガーターベルトの三者が織り成す淫靡な三角関係は雲散霧消した。ブルー・ジーンズを日本人の目に焼き付けたジェームス・ディーンの「理由なき反抗」の日本公開は1956年だが、本格的にブルージーンが日本に普及したのは1963年エドウインLEVI'S 大人たちは、このジーンズを穿いた不良たちに眉をひそめ、自分の子供にジーンズを穿かせようとしませんでしたが(アメリカ東部の学校ではジーンズの着用が禁止されていたところもありました)、若者たちはジーンズに魅了され、こぞってジーンズを買い、穿くようになったのです。 | ||
Smiley(^-^)Tama | 2005年6月8日記 |